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音楽・音学・音が苦 (ミニエッセイ集) 目次へ

 音学・音が苦(おんがく)から音楽へ!/2003年11月30日

  日本ほどピアノ・バイオリンなど音楽に関わる習い事や教室の多い国はないと思われる。その割合に見合うほど有名演奏家が多いとは思えない。もちろん、秀でた演奏家になるためには早くから楽器に接する事が一つの条件になっている事は確かだが、それだけではないだろう。反対に、嫌々(時には泣き泣き)そうした教室へ通ったためピアノ嫌いになったりする場合もあるぐらいだ。音楽が「音が苦」になっては効果の程は見えている。嫌になったらしばらく中断するくらいの余裕がほしい。好きになればまた始められ、最初の時より上達が早い事も結構ある。
 また、小学1年生から制度的な音楽教育があるが、「譜面(音符)が読めない。」という声をよく聞くが、これがもう一つの日本の音楽事情だ。小学校から中学校まで合計9年も教わってこの状態だ。皆が皆までそうではないと思うが、音楽を音を学ぶだけにしてしまった「音学」の行き着いたひとつの結果だ。だから、音学でなく音をもっともっと楽しむ事を提案したい。歌や楽器の扱いを覚えるのでなく楽しむ、歌い奏でる喜びを知る。名曲を覚えるのではなく鑑賞する、酔いしれる。そんな「遊びの世界」に、音楽を再び引き入れるのだ。おそらく音楽は、太古の時代より労働から解放された時間に疲れた体や心を癒す(遊びの大事な一面)為に発展してきた。音を楽しんできたのだ。そこに再び立ち返る事なのだ。習い事や音楽の勉強は、それからでも遅くない。ともかく音楽の字そのままに、せめてこども達には音を楽しませたいものだ。そして、それには昔から伝えられた遊び唄が沢山あり、すぐにでも始められるのだ。


 音楽が『音が苦』になった一つの訳(わけ)/2004年6月24日

 今日は、「ドレミ」音階がイタリアの僧侶ギドー・ダレッツオによって定められた日だそうだ(1024年)。音楽が音を楽しむのでなく、音を学ぶ音学になり「音が苦」になったひとつのルーツがここにあると思う。
 もちろん、「ドレミ」がダレッツオにより制定されたことに何ら問題はない。その「ドレミ」の日本への取り入れ方や教え方に問題があるのではないかと思っている。
 ご存じのことだとは思うが、「ドレミ」は絶対的な音の高さをあらわしていない。おなじ「ド」の音も、楽曲の調の違いによりC(ツェー)の音程になったりD(デー)の音程になるのだ。
 ここで書いた「CDEFGABC」の音階は、オクターブの違いがあれCはCの音なのだ。先ほどの例をこの音階からみて書くと、同じCでも調の違いにより、「ド」になったり「シ♭」になったりするのだ。
 こういった難しさの上に、日本では「ハニホヘトイロハ」の日本語表現も使う。この音階表記は「CDE」音階表記と同じ意味を持つ、いわば翻訳版だ。
 この様に、不幸なことに日本の音楽教育には、「ドレミ」(イタリア語)、「CDF」(ドイツ語)、「ハニホ」(日本語)、時には英語読みの「CDF」が使われる。
 さらに、日本語では「嬰ヘ短調」などの読むこともさることながら意味の分かりにくい「嬰」と言う字が使われる。「変ロ長調」の「変」にしても意味することが理解しにくい。この様な音階の難しさにどれだけのこども達が苦しんだかことか。
 「ドレミ」は相対音階で、素人にも音程がとりやすい利点があるので残すにしても、その他の音階はどれかに統一してもいいと思う。例えば、Cm(シーマイナー)などに親しみを感じている人も多いので、英語読みの「CDE」音階にするのも一案だろう。
 では、おまけにこども達があそびの世界で使っている音階?を紹介して、結びとする。こういう音楽の楽しみ方をこども達は知っているのだ。
「どらねこにげたど(ぞ)、どしたらよかろか」


 音楽が『音が苦』になった、もう一つの訳(わけ):楽器教育/2004年9月4日より連載

 以前の日記の記事に、音楽を「音が苦」にしてしまったわけのひとつを書いたが、まだその他にもいろんな理由があると思われる。
 その一つが、楽器教育の問題だ。小学校の音楽の授業に於いてこども達が使っている楽器の御三家は、「カスタネット・ハーモニカ・リコーダー(縦笛)」だろう。
 ごく最近では、和楽器を取り入れているところもあると思うが、大阪市での状況は、この3種の楽器が多いようだ。これは、数十年前の私のこどもの頃から大差はない。こうした状況は、おそらくつぎに掲げる「指導要領」に起因すると思われる。
「第1 目 標
 表現及び鑑賞の活動を通して、音楽を愛好する心情と音楽に対する感性を育てるとともに、音楽活動の基礎的な能力を培い、豊かな情操を養う。 −−−−−中略−−−−−
第3 指導計画の作成と各学年にわたる内容の取扱い (3) 各学年の「A表現」の(3)の楽器については、次のとおり取り扱うこと。 ア 各学年で取り上げる打楽器は、木琴、鉄琴、我が国や諸外国に伝わる様々な楽器を含めて、演奏の効果、学校や児童の実態を考慮して選択すること。
イ 第1学年及び第2学年で取り上げる身近な楽器は、様々な打楽器、オルガン、ハーモニカなどの中から児童の実態を考慮して選択すること。
ウ 第3学年及び第4学年で取り上げる旋律楽器は、既習の楽器を含めて、リコーダーや鍵盤楽器などの中から児童の実態を考慮して選択すること。
エ 第5学年及び第6学年で取り上げる旋律楽器は,既習の楽器を含めて,電子楽器,我が国や諸外国に伝わる楽器などの中から児童の実態に応じて選択すること。 −−−−−後略−−−−− (小学校学習指導要領 音楽より)」
 みなさんも、これをご覧になっておわかりいただけるのは、この指導要領の目標は9年間の義務教育をもってしても、達成していないと思われることだ。もちろん、達成して素晴らしい音楽家になったこども達もいるが、それが「音楽」の授業によったかどうかの判定は難しい。
 楽器指導に於いても然りだ。カスタネットはともかく、ハーモニカとリコーダーを上手に吹きこなせる大阪人は少ないと思われる。それどころか、ハーモニカ・リコーダーが「苦手だ。」とか、「嫌いだ。」と言う方も多い。
 このことは、最近だけの特徴的な傾向ではない。この数十年間ずっとそうだったと言えるのではないだろうか。これは、義務教育における楽器教育の破綻を意味しているのに、その事の反省があまり無い様に思われる。

 破綻に近いと思われる日本の器楽(楽器)教育をもたらしたものとして考えられるのが、楽器の選択及びその時期の問題があると考えている。その楽器選択の問題点について考えていく。
 まず楽器選択の問題から考証する。先にあげた「学習指導要領」には、具体的に採用する楽器が提示されている。楽器名が書かれている物を挙げると、オルガン・ハーモニカ・リコーダーとなっている。
 また、打楽器・鍵盤楽器・電子楽器としてジャンル指定があり、その打楽器には木琴・鉄琴と指定があるが基本的には選択の自由がある。さらに、高学年では「我が国や諸外国に伝わる楽器」という選択肢もあるが、これはすべての楽器に拡がってしまい、かえって選択しにくいかも知れない。
 ハーモニカ・リコーダーが選択される理由がここらあたりにあると思われる。選択肢は他にもあるが、特に、オルガンを各自にあてがうほどの予算が保証されていないなかで、個人が購入して使用する楽器となると、カスタネット・ハーモニカ・リコーダーとなってしまうだろう。
 予算制限がたとえあっても、個人で比較的に購入し易い楽器としては他に、横笛やオカリナなどがある。「指導要領」の解釈でも、そうしたものを選べるかも知れないが、候補に挙げられていない。
 要するに、選択肢があるようで実際にはほとんど選択が実行されないような環境下では、指定楽器同然とならざるを得ない。そのような「指導要領」の規定の仕方と予算の裏付けの無さが問題なのだ。

 つぎに、楽器教育の破綻のもう一つの原因と考えられる、楽器選択の時期について考えていく。これを「指導要領」に旋律楽器として楽器名の挙がっている楽器に絞って論を進める。
 このなかの楽器は、「指導要領」によると、オルガン・ハーモニカは1・2年生、リコーダーは3・4年と採用時期の指定がある。この内、オルガンは個々の児童の使用頻度としては少ないと思われるので、ハーモニカとリコーダーに絞って考える。
 まず、低学年指定のハーモニカは、息を使って音を出す楽器としては特殊な楽器だと考えている。それは、鍵盤楽器に準じて音程の違いを吹く(吸う)位置の違いによって出すことがひとつ目の特徴だ。
 これと同じような楽器に、パンフルート(葦笛)がある。ただ、ハーモニカはパンフルートと違って、左右どちらが低音になるか見かけ上わかりにくい形状になっている。これは、こども達が演奏にあたり、持ち方に戸惑ったり、一音一音目で吹くところを確かめていることでわかる。
 さらに、音階の並びが必ずしも「ドレミファソラシド」が同じように繰り返されていないのだ。希に、その様に改良?されたハーモニカがあるにはあるが、それは穴が等間隔に並んでいないと言う、新たな弱点が備わる。
 さらに、ハーモニカは吹くだけでなく吸って音を出すという独特な奏法がある。これは結構難しいことは、ハーモニカを吹いてみた方なら経験済みの事だと思う。ましてや、低学年児童にとっては、これまで経験のない息の使い方だ。
 以上のことを考慮すると、何故低学年でハーモニカなのか、はなはだ疑問に思えるだろう。この疑問を払拭するぐらいにハーモニカの優位性があるとは思えない。
 これに対して、リコーダーは吹くだけで音が出る。音程の位置が目で確認しやすいなどの利点がある。ただ、一般に小学校で採用されている物は、穴の間隔が低学年児にとって若干広いかも知れない。また、低音を出すのにそれなりコツがいる弱点もある。
 ただ、私の経験で言えば、ハーモニカとリコーダーの弱点を比べてみれば、リーコーダーの方が克服しやすいと思っている。それは、ハーモニカよりリコーダーの方が上手なこどもが多いように思われることでもわかる。
 よって、低学年ではリコーダーの方が向いており、できれば低学年ではカスタネットやタンバリンなどのリズム楽器にしておくのもいいだろう。そして、中学年になってからリコーダーなどの楽器を採用するのが良いと思う。どうしてもハーモニカが必要なら高学年でも良いのではないだろうか。

 以上のような不合理な器楽教育になってしまったのは、、そうした器楽教育が行われる実際の現場での問題と、それをもたらす背景となっている日本の公的芸術教育の基本的スタンスの問題に原因の一端があると思っている。
 まず、現場の問題として、これまで紹介してきた楽器選択とその選択時期の問題があるにもかかわらず、それをカバーして「指導要領」の目標を達成させるだけの器楽技術の力量を教え手が十分持ち得ていないことだ。
 少なくない学校での教え手である教師の方が、ハーモニカやリコーダーを教え得るに足りるだけの十分な器楽技術を、残念ながら持っていないと思えるのだ。もちろん、素晴らしい実践をされておられる方もいるが、多数派ではない。
 一方で、楽器演奏自体はそれなりの専門的な技術習得が必要であるのにも関わらず、それを、学級を担任しなおかつ全教科を教えなければならない現状がある。そうした状況では、教師のみなさんに責任を課せるのは酷なことでもある。
 一方、中学校以降では、音楽専任の教師が配置されているが、その専任の教師こそ、小学校の器楽(音楽)教育の現場に配置すべきだと思っている。
 音楽をはじめて教育と言う形で体系的に接する小学校だからこそ、素晴らしい音楽(器楽)的技術とセンスに接して、音楽・器楽を好きになってもらうことが大切だからだ。
 そうしたことが不十分な背景として、音楽教育を教育のなかの極狭い分野の「勉強」にしている感がある、「指導要領」などの公的なスタンスがあると思っている。
 確かに、音楽や器楽を勉強として教えることも必要であるとは思うが、少なくとも低学年のこども達の器楽教育には、もっと楽しむ要素があっていいのではないだろうか。
 「指導要領」の目標もそうした精神であるにもかかわらず、その具体化では「指導要領」そのものも成功していないと思っている。
 また、そうした努力をなされ大きな成果をあげられている先生方も多い事も事実だとは思うが、そうしたことがまだ個人的な力に依拠しているのは否めない。
 音楽は、楽器演奏においても、音を楽しむと言ったスタンスの教育そして、そうしたスタンスに立った「指導要領」の改訂を期待するものだ。

(ミニエッセイ集は、「遊び学ブログ」の記事を加筆・修正したものです。)

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