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惨数・数牙苦から算数・数学そして数楽へ
(ミニエッセイ集) 目次へ

 算数や数学は、時には少なくないこどもたちにとっては、「惨数」や「数牙苦」ともいえる存在になっているように感じています。私は幸いにもそうならなかったばかりか、しばしば「数」を楽しんだりもしています。こうしたことを含め、この「算数・数学」について、これまで遊び学ブログに書き綴ったものをまとめてみました。なお、必要に応じて加筆・訂正を施しております。

 テーマ『算数とこども』設定にあたり/2004年5月16日

 皆様のおかげもあり、テーマ「こどものあそび:その今昔(いまむかし)」での日記記事(エッセイ)が200件を超えました。これをひとつの機会として新たなメインテーマを設定することにしました。その新テーマ「算数とこども」設定についての思いをまず書いていきます。
 私がこどもの頃(数十年前)から今までの経過を見ても、「算数」において多くのこども達が悪戦苦闘してきました。それに伴って、多くの親たちもまた悪戦苦闘してきました。
 しかし、「算数」教育の現状は、その悪戦苦闘の積み重ねの大きさとは必ずしも比例して改善されていないと思っています。例えば、かけ算の九九の状況は昔より悪くなっている事例も数多く報告されています。
 また、「文章問題ができない。」「応用問題ができない。」と言う事は、それが注目し始めてからも大きな改善は見られていません。ある意味では、新たな悪戦苦闘が起きてきていると言った状況です。
 もちろん、今までのそれぞれの時期で、それぞれの所での、個々の素晴らしい成果があった事も事実です。しかし、それが、あまねく世間一般に拡がっているとは言えない状況だと思っています。
 私は、すべてのこども達は、「算数」を含め賢くなる権利を持っており、おとなはその権利を全うさせるべき義務を負っていると常々思っておりました。
 本館のサイトでも、若干の思いを綴ってきましたが、まだまとまり切れていないものも多かったこともあって、ほとんどこれまで書き留めてはきませんでした。この書きなぐり日記(自分でそう位置づけています。)という気楽な形式ならと思い至りました。
 よりまして、テーマへの投稿記事には、私の不勉強や思い違いも多々出てくるかとは思いますが、先ほどの主旨をご理解の上ご容赦お願いいたします。
 なお、テーマ「こどものあそび:その今昔(いまむかし)」での投稿(エッセイ)も適時続けていきますので、引き続きよろしくお願いいたします。


 算数と言葉(その1):二通りの数字の読み/数詞/2004年5月17日

 算数の事を考える上で、言葉との関係を把握しておく事が大切だと思う。算数を学習し理解していく上では、言葉が必要な事は自明の事かも知れないが、教育の実践過程では意外と忘れがちになっている事だと思っている。
 日本のこども達は当然日本語で、アメリカのこども達は英語でと、それぞれの国のこども達はそれぞれの国の言葉を通して算数を習い理解し身につけている。
 その日本語による数を表す言葉(数詞)には、ひとつの特徴がある。まったく同じ数を意味するのに、二通りの言葉があると言う事だ。
 それは、訓読み・音読みの違いに準じた事で、例えば「1」は「ひと(つ)」と「いち」の二通りの読み方(言い方)がある。それにしたがって、数(かず)の数え方(特に10まで)も、「ひとつ、ふたつ、・・・・・、とお」(訓読み的)と「いち、に、・・・・・、じゅう」(音読み的)の二通りある。
 このことは、そもそも日本語の成り立ちに起因しているが、それについての論究は別の機会とするが、算数の理解に何らかの難しさを生み出すひとつの原因と考えていい。これを、こどもの発達・成長過程に沿って考えてみるとよく分かる。
 小さい幼児に歳を聞くときは「幾つ?」と聞く場合が多く、「何歳?」と聞くのはまれだろう。また、幼児が物の数を数えるのも、「10」までがせいぜいなので訓読み的数え方が音読み的数え方より断然頻度が高いと思われる。
 ところが、小学校へ入学したとたん反対に音読み的数え方が優勢になるのだ。それまでの音読み的数え方の経験が乏しい子にとっては、これが算数の前に立ちはだかるひとつのハードルとなりかねないのだ。


 算数と言葉(その2):和漢入り交じった数え方(数詞)/2004年5月19日

 前回(その1)に書いた、訓読み的・音読み的数え方という表現を使ったのは意味がある。「的」とつけたのは、現在の状況としてそれぞれの数の数え方が訓なら訓に統一されていない現実があるからだ。
 数を表すには数詞というものが必要だが、専門家によると日本語の数詞には、和語数詞(ひと、ふた…)と漢語数詞(いち、に…)とがある。先に書いた訓読み的数え方は和語数詞に音読み的数え方は漢語的数詞に対応する。
 そもそも日本語は、古くからあった和語(元の日本語)に大陸から漢語(当時の外来語)が入ってきて日本語化し、現在の日本語に至ると言う経過をもっている。ちなみに、隣国のハングルも同様だそうだ。
 当然ながら、数詞も同じ経過をたどり現在に至っている。その中で、物を数える際に和語数詞と漢語数詞が入り交じって使われるようになった。
 例えば、人の数を数える時一般的には次のように数える事が多い。「ひとり、ふたり、さんにん、よにん、ごにん、・・・・・」この様に、明らかに和語数詞と漢語数詞が入り交じっている。
 反対に、回数を数える場合は「いっかい、にかい、さんかい」は漢語数詞だが、次は「しかい」にならず「よんかい」の和語数詞が一般的だ。また「七回」は「しちかい」「ななかい」の二通りの使い方がある。


 算数と言葉(その3):助数詞との複雑な関係/2004年5月21日

 物の数を数えるには、「第一」「三本」のように数詞の前や後について、順序や数え方の種類をあらわす語である助数詞の助けがあると分かりやすい。
 この助数詞の使い方が日本語では、非常に難しくなっている。その数詞と助数詞の関係の複雑さは当然こども達のみならずおとなまでも悩ませている。
 同じ漢語的数え方を例にしても、「一本、二本、三本、・・・・・」と漢字で書けば気付きにくいが、これを読むと助数詞「本」は順に「ぽん、ほん、ぼん、・・・・・」と、前の数詞の違いによって発音が違うのだ。
 これは、「一」と「本」のように、日本語は言葉と言葉が結合すると発音の変化が起きる事が意外と多いという事に起因していると思われるが、それにしても難しすぎる感がある。
 この様に、日本語では数を数えるにはいろんな物を数えた事があるという実績が、数というものを理解していく上で大きくものをいうことが推測できる。
 これは、単に誰それから教わるという事も大切だが、生活の中での体験・経験で身につけていく事が大切だと思う。特に、小学校ではじめて体系的に「数(すう)」を習うこどもにとっては非常に大きな意味を持つと考えている。


 数える事とこども:指導要領雑感(その1)/2004年5月24日

 こども達が数えるという事を初めて体系的に学ぶのが小学校の第1学年だ。当然、文部科学省の小学校学習指導要領にも、その事が明記されている。この指導要領について、気づいた点や思いを書いていく。
 まず、数える事に関わる指導要領の一部分を、以下に指導要領(算数編、平成11年5月)からの抜粋を示す。(以下抜粋)

1 第1学年の内容
[A 数と計算] A(1) 数の意味と数の表し方
(1) ものの個数を数えることなどの活動を通して、数の意味について理解し、数を用いることができるようにする。
ア 対応などの操作によって、ものの個数を比べること。
イ 個数や順番を正しく数えたり表したりすること。
ウ 数の大小及び順序を考えることによって、数の系列を作ったり、数直線の上に表したりすること。
エ 一つの数をほかの数の和や差としてみるなど、ほかの数と関係付けてみること。
オ 100までの数について、その表し方と意味を理解すること。
(以上P62より抜粋、この後、詳細な解説が続く。:筆者注)

 今日は、「ア」にある「対応」に焦点を置き書いていく。
この「ア」の文章はまだ分かりやすいが、前記抜粋の少し後の解説文になると、凡人の私には非常に分かりづらい表現になっているので、少し長い目に抜粋しておく。(以下抜粋)

a.個数や順番をかぞえること(ア、イ)
 同じ観点でものを見ることから、一つの集合をつくる活動と、二つの集合の要素の個数を比べる活動がある。このようなときに、それらの要素を直接数えなくても、二つの集合の要素の間に1対1の対応をつけることで、その二つの集合の要素について、その個数の大小が判断できる。第1学年のはじめでは、10くらいまでの個数が学習の対象となるが、これらの活動は、個数が多いときにも有効に使えることに気付かせたい。
 さらに、このことは、音の数のように見えないものや、目の前を通りすぎる車の数のような動いているもの、また、校庭にある木の数など手元の操作ができないものを数えることにも使える。これらの一つ一つと、おはじきや棒などを対応させ、対応させたおはじきや棒の個数を数えるなど、数えやすいものに置き換えるという方法である。このように具体物を用いた算数的活動を行うことが望ましい。
 ものの個数を正しく数える場合、まず、数えようとするものの集まりを集合として明確にとらえることが大切である。次に、数える対象に、「いち、に、さん、し、・・・」という数詞を順番に1対1に正しく唱えて対応させ、対応が完成したときの最後の数によってものの個数を表す。
 また、順番を表すという面からも数についての理解を図ることが必要になる。順番を調べる対象に、順に数を対応させていき、その対応する数によってその順番を知ることができる。このとき、最後の順番を表す数はその集合の要素の個数を表す数と一致することになる。また、0については、次の意味が次第に理解できるよう配慮する必要がある。
(以上P63の抜粋)

 未熟ながら要約すれば、個数や順番を数えるには、対応という操作が大切で、その対応には物と物との対応、物と数詞の対応などがあり、物は必ずしも見えたり手に取ったりできる物だけではないという事だろう。
 そして、この方法により、こども達に「個数や順番を数えること」を教えなさいという事だ。しかし、ここで考えてみる必要があるのは、この方法は、必ずしもすべてのこどもが小学校に入学して初めて経験し会得するものではないことだ。
 多くのこどもは、程度の差はあるものの、こういった方法で数を数える事をすでに行っているし、そのことの意味(個数・順番・大小など)も含めて一定の理解をしていると言う事だ。
 そして、重要なのはその程度の差があると言うことで、何らかの理由でそれの程度が初歩の水準にある子から、かなり高度なレベルに達している子までいると言うことだ。
 そこからは、指導要領の実践上での留意点があることが分かると思う。小学校入学までの数の認識の程度に応じ、実践的対応ができる指導要領での詳しい説明が必要だと考えている。
 また、指導要領には敢えて触れていないのかも知れないが、数詞と数字の対応、言い換えれば話し言葉としての数と文字としての数の対応が適切に指導されなければならないと思っている。
 それには、先日書いたように、特に日本語に於いて数えるという事が一筋縄ではいかないからである。「1本、2本、」で、まだ「ぽん」と「ほん」にこだわっている子は、おそらく指導要領にある「対応」の操作に若干のとまどいもあるかも知れないからだ。
 数える事は、数(すう)を理解する上での一つの出発点だ。だからこそ、その出発点では算数嫌いな子や算数の苦手な子をつくり出さないような教え方が望まれるし、一人一人の到達に合わせた、数え方の適切な指導が必要なのだ。


 算用数字は曲者(くせもの)、不思議な字/2004年5月26日

 こども達も含め、私達が分かり切った当たり前のこととして使っている数字(算用数字)。あらためてじっくりと考えてみると不思議な「字」である事が分かる。
 例えば「22」は、漢字で書くと一般的に「二十二」となる。この漢字に読み仮名をふると、「二(に)十(じゅう)二(に)」となる。
 さて、算用数字の「22」に仮名をふるとしたら、どうなるのであろうか。おそらく「2(にじゅう)2(に)」となるのが普通だ。
 このように、同じ算用数字であっても数字の並んでいる位置によって、その「読み?」が違ってくるのだ。言い換えれば十の位にある算用数字は、「10」の何倍であるかを示し、「−じゅう」と読む?。百以上の位でも同じ事だ。
 このように、算用数字は漢字(漢数字)の一般的な読み仮名のルールが当てはまらない曲者の数字なのだ。同じ算用数字の「読み?」が無数にあるという変幻自在さを持っているのだ。
 このことは、小学校入学までの生活などで10以上の算用数字を見たり書いたりした経験が十分に豊かであれば、さして苦労せず先に書いた事が理解できるだろうと思っている。
 また、そのようなこども達は大多数と思われるが、もしそうでないこども達は大きなとまどいを抱くことになるだろう。そして、そんな子達こそ学校での丁寧な指導を最も必要とされるこども達なのだ。


 算数とこどもの生活:門外漢の推測/2004年5月27日

 こども達は、算数というものに本格的・制度的に接するのは小学校へ入学してからだ。しかし、前にも書いたように、数そのものにはそれまでの生活の中で個々の違いがあれ接している。
 10までの数なら、わざわざ早期教育を受けなくても、読めて書ける子もたくさんいるだろう。カレンダーや時計などの数字など、こども達の周りには数が多くあるし、お菓子の個数やトレカの枚数を数えたりなどなど実践的学習の機会も多い。
 さらに、お菓子も10円単位の値段で消費税付だったり、自動販売機には3ケタの数がずらっと並んでいる今の時代は、2ケタのみならず3ケタの数に慣れ親しんでいるはずなので、昔の時代より高度な数の世界に接している思われる。
 しかし、その事と決して算数の力が比例しているとは言い難いのは何故だろうか。そのことは、早期算数教育が各段に拡がっているが、その成果が一般化していないのと、根が同じだと考えている。
 門外漢の身の勝手な推測で言えば、おそらく算数の知識が薄っぺらな通り一遍の知識になっているからだと考えている。言い換えれば、算数の(記憶・思考・応用などの)回路が脳に縦横に絡み合いしっかりとして築かれていないことだ。
 その事をもっと大胆に考えを推し進めれば、算数の知識を裏打ちする生活上での体験・経験が乏しいのでは無いかと考えている。例えば、「計算ができるのに文章題ができない。」という状況の裏には、「その文章題の意味する具体的な状況が思い浮かばない。」と言った状況が考え得るからだ。
 そもそも、文章題は抽象的な計算を具体的な事例の中で計算の仕組み・使い方などの理解を促す事が一つの目的だと思うが、その具体的事例が思い浮かばないのでは文章題の意義が無くなる。このことはあくまでも私見にすぎないが検討してみてもいいのではないだろうか。


 算数嫌いになる学年?!:指導要領雑感(その2)/2004年6月07日

 テーマ「算数とこども」に関わって、このところ、小学校学習指導要領解説/算数編(平成11年5月文部省)を見る機会が多くなった。そんななかで、気付いた点が幾つかあるが、そのひとつは以前にも書いたが、また別な点を書いていく。
 算数をめぐっての話題で、こども達の算数が苦手になったり嫌いになったりする時期で、よく取り沙汰されるのが3・4年生の時期だ。その事の根拠や理由にはいろいろの意見もある。
 それに関わって、冒頭に記した指導要領で気付いた点がある。それは、第4学年の内容が解説文記載ページ数で一番多いという事だ。ちなみに、各学年のそれを以下に示す。
第1学年:11 第2学年:14 第3学年:19
第4学年:23 第5学年:20 第6学年:17 (ページ数)
 指導要領の記載ページ数が多いという事は、単純ではないだろうが、それだけ教える事の内容の量が多いか難しいかのどちらかだろう。もちろん、授業時間数が多ければ少し事情が違ってくるので以下に授業時間数を示す。
第1学年:114 第2学年:155 第3学年:150
第4学年:150 第5学年:150 第6学年:150 (単位時間数:1単位時間数は45分)
 これを見ると、第4学年の負担?が大きいと推測できる。また、第2学年より第1学年の負担?が大きいと推測できる。特に、第1学年ははじめて体系的な算数に接する学年でより負担?が大きいかも知れない。
 ここで、「負担」に「?」をつけたのは、指導要領解説文の量からの推測に依るからだ。しかし、繰り返しになるが、指導要領の解説は先生方がこども達に算数を教える基本的な教え方の解説なので、その量が多いという事はその量に比例してその学年の算数が難しいという事だ。
 以上が、こども達の算数嫌いになる学年が3・4年生だと言われる事の私なりの勝手な推測だが、そんなには的が外れていないと思っている。それは、まだ他に思い当たる点があるからだが、それは次の機会にゆずる事にする。


 デジタルと算数の一関係:時の記念日からの発想/2004年6月10日

 時計は、目に見えない時間というものを影・水・砂・針などの動きの変化を見ることによって計る道具だ。唯一人間だけが時間を視覚化させることに成功した。
 この時計は、「アナログ時計」と「デジタル時計」に大きく二つに分けることができる。少なくとも日本では「デジタル」と言う言葉が一般周知になったのは「デジタル時計」の普及後からだろう。
 さて、今のこども達はこの時計をめぐってどの様な状況にあるのか、算数との関係に焦点をおいて、またまた自分勝手な推測を書いていくことにする。
 今、こども達の周りには時計が満ちあふれていると言った状況だ。TV画面の中、電話や携帯電話、はたまた冷蔵庫や電子レンジにいたるまで、これほど時計に囲まれて生活する時代があったろうか。
 しかも、その時計の多くが「デジタル時計」なのだ、いまや「アナログ時計」は壁掛け時計や置き時計などに僅かにその存在を主張するのみだ。
こうした事情は、こども達の算数事情に幾ばくかの影響を与えているのではないかと考えている。小学校算数指導要領(平成11年5月)によると、第2学年の「内容B(2)時刻をよむ」の項に「日常生活の中で時刻をよむことができるようにする。」ある。
 もちろん、ここで「時刻をよむ。」とは「アナログ時計」が刻む時刻をよむ事を指す。ところが日常生活そのものは「デジタル時計」があふれかえっている状況なのだ。当然、その教え方(指導の仕方)に、影響があるはずだ。
 こども達から、「どうして、わざわざ難しい方の時計(アナログ時計)で時刻をよまないといけないの?」という質問にどう答えるのか。答に窮するだろう。
 そこで、そうした場合の一つの対処方法を考えてみた。「アナログ時計」の持っている長所を話してあげては如何だろうか。それは、アナログは連続的な特性故、時間の過去から現在未来へと続く経過が、視覚的に分かるということだ。
 例えば、3時20分は短針の位置で3時からどれだけ経過したか、その位置のずれの大きさを見て具体的にイメージできる。同様に、後どれぐらいで4時になるかもイメージできる。
 しかも、3時と4時のどちらに近いかも、その位置のずれの大きさの比較でイメージできる。それぞれ時間演算をして比較せずとも、大まかな関係が分かるのだ。
 このことを、言い換えれば「アナログ時計」は時刻(時間)を具体的にイメージする上で優れもので、「デジタル時計」は反対に抽象的色彩の強いものと言える。
 こう言ったことを優しい言葉による「時刻をよむ指導」の導入などのほか、「アナログ時計」を見たり使ったりする経験が乏しいことを考慮した「時刻をよむ指導」が必要だと思っている。
 もちろん、こうしたデジタル時計優勢の時代でも、すでに時刻をよむ事に熟達しているこども達も多い。しかし、その割合は、「アナログ時計」優勢の時代より少ないことの可能性は大であろう。
 「デジタル時計」が氾濫しているご時世だからこそ、せめて家の中にできれば1から12まで揃って、数字が大きく書いてある「アナログ時計」を、こども達の目のつくところに掛けるのも一案だと思う。


 折り紙と算数:幾何学的認識のひとつのバックグランドとしてのあそび/2004年6月11日

 小学校としてはピカピカの第1学年から図形の学習が始まる。今まであそびをはじめとする生活の中で親しんできた丸・三角・四角という「形」を幾何学として体系的に学び始めるのだ。
 まだ、低学年のうちはいいものの、高学年になって半径・直径・平行・垂直などのまだ幾何学では初歩であるが、難しい?幾何学的概念が出てくると、そろそろ「図形の学習」が嫌いになってくるこどもが出始める。
 ましてや、これが中学校・高等学校へと学習の水準が本格的幾何学のレベルに達すると、急激に幾何学大嫌いという子ども達が続出する。それは、それまでの体系的な学習の積み立て?をあざ笑うかのようでもある。
 そうした一方で、幾何学の神秘的とも言える不思議さ・美しさに魅了され、幾何学が好きで好きでたまらないこども達も存在することも、周知の事実だ。
 では、この両極端の分かれ目は何だろうかと言うことだ。ひとつは、ごく当たり前の事になるが図形というものに興味を示し得たかどうかだ。それは、はじめて「図形」と言う概念で教えられる小学校教育なかでも低学年での教育での関わりが重要と考えるが、それについては別の機会にゆずることにする。
 つぎに、こども達が日常の生活の中でどれだけ図形に親しんでいるかどうかが、図形・幾何学の好き嫌いを導きうる要素(バックグランド)の一つとなると考えている。
 こどもの生活の中ではあそびが効果的で、図形を意識して活動をするのが、タングラム・ジグソーなどのパズル類、組み立てブロックあそび、お絵かきあそびなどいろいろある。そんなあそびのなかで、日本において歴史と伝統のある折り紙あそびに論点をしぼる。
 折り紙は紙を折ると言っても、周知のようにでたらめに折っていくのではなく、規則正しい折り方に則(のっと)って折っていく。そのひとつ一つが幾何学の重要で基本的な法則・定理などに依拠しているのだ。
 例えば、折り紙を真半分に折るには二通りの方法があって、対角線(角の2等分線)で折って三角形にするか、辺の2等分線で折って長方形にするかのどちらかだ。また、特殊な折り方として頂点を辺の中点と重ねるような折り方もある。
 この様に、その意味は全く知らなくても自然に2等分線や頂点・中点などのイメージ形成が培われているのだ。こうした、幾何学における基本要素の慣れ度合いは、将来や進行中の幾何学学習の大切なバックグランドになり得る。
 さらに、折りあげる過程や結果に出現する様々な形、ユニット折り紙など立体的な形を見た経験の効果は、決して小さくはないと考えている。
 この様に、折り紙は幾何学学習を助けるひとつのバックグランドをつくるが、これはあくまでバックグランドであって幾何学的知識は学校等での幾何学教育が無くては成立し得ないことは言うまでもない。
 そして、折り紙が苦手な子のみならず、一般に折り紙は押しつけても、折り紙そのものを一層嫌いにしてしまい、効果はほとんど期待できない。親が、折り紙の楽しさを十分に味わうことが、一見回り道のように見えて実は近道なのだ。


 苦しい算数から楽しい算数への回帰を願って/2004年6月14日

 学童保育所時代のエピソードだ。夏休みの勉強会でこども達に、たまたま使っていた教科書の表紙が「楽しい算数」だったので、「あんたらのやってる算数は、『楽しい算数』とちゃうな(違うな)。『苦しい算数』やな。」と言うと、どっとうけた。
 このことはよく考えてみると、如何に算数を苦手とするこども達が多いことの傍証となっている。「苦しい算数」が実感として、こども達に受けとられるのだろう。それにしても、算数を楽しいとうけとる子はいないのだろうか。
 テーマ「算数とこども」を設定するにあたり、「すべてのこども達は、『算数』を含め賢くなる権利を持っている。」と書いたが、見方を変えると、「こども達が算数を楽しく学べる環境づくりが大切だ。」とも言える。「苦しい算数から」から「楽しい算数」への回帰だ。
 テーマ「こどものあそび:その今昔(いまむかし)」で何回か書いたが、こどもは本来新しいことに対しての興味や好奇心は、おとなのそれに比してかなり大きいと思っている。それに伴い、新しい知識を取り入れるのにどん欲で、その事に喜びを感じるのが、こども本来の姿だと思っている。
 こどもは、すでに小学生でおとなに近い脳細胞数を持っているが、その連絡回路(シナプス)は発展の初期段階だから、新たな回路を作る事に喜び・楽しさを感じるとのは極自然なことなのだろう。
 このことは、幸いなことに私自身の体験を例に挙げることができる。私は、算数から数学に至るまで、高校でのある特定の何コマかの授業を除いて算数・数学を苦痛だと基本的には思わなかった。
 そうなった理由として考えられるのは、親や小学校の先生方の、算数を含めた勉強へのスタンス(対応・気構え)だろう。私も当然、何回も間違った答をテストや宿題で書いたことがあるが、その事を指摘はされても怒られなかった様に思う。少なくともそうした印象が残る程度のものだった。
 また、親や先生方から勉強を強いられた記憶もあまり無い。もちろん団塊の世代は受験も厳しく高校・大学受験前には例に漏れず、そうした有形無形の圧力はあった。しかし、その時点では、その圧力ですら苦痛では無くなっていた。
 要するに、算数や数学という学問を自ら進んで学んでいく時期までの、周りの環境とくに親や教師のスタンスがある意味ではひとつの決定的な意味を持っていたのだ。
 楽しいはずの算数を楽しく学べる条件が、おとなの算数に対するスタンス(対応・気構え)で形成される、いや形成できるのだ。そのことは、制度的数学学習の第一歩、小学校第1学年の授業のあり方に凝縮していると言っていい。
 ただ、今は小学校にはいるまでに、「苦しい算数」の域に到達してしまっている状況も少なくないと思われるので、算数を楽しく学べる条件づくりは厳しいかも知れない。でも、こどもは小学生時代なら、まだ十分に柔軟性・復元力を持っている。そのことに依拠した周りにいるおとなの対応が望まれる。

(ミニエッセイ集は、「遊び学ブログ」の記事を加筆・修正したものです。)

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