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班競争と奉仕活動
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 奉仕とボランティア

 昨今、教育における奉仕活動の義務化の論議が行われており、賛否いろいろな意見が出ています。しかし、誰しも奉仕活動の大切な意味については否定してはいません。意見が分かれているのは、その義務化をめぐっての話です。ここで、注意しなければならないのは、奉仕活動とボランティア活動の違いです。旺文社の国語辞典によると、奉仕とは「国家・社会などのために、損得を考えずに尽くすこと。」とあり、ボランティアとは「〈志願者〉社会事業などに自分から進んで技能や労力を無報酬で役立てる人々。」とあります。この二つは、似ていても違うのです。この二つを重ねて、ボランティアで奉仕活動をするという表現もあり得るわけです。

 奉仕の美化と強制

 しかし、この二つを混同して使用している場合が意外と多く、私もその一人であった。また、意図的に混同させて奉仕活動を美化させておられる識者もいます。ここで、もう一度奉仕活動を考えてみますと、国家・社会への突出した強制的な奉仕が兵役であった、歴史上の事実を思い返すと、必ずしも奉仕は善だとは言い切れません。それどころか、かつての少年・少女の勤労奉仕や罰としての奉仕など、強制された奉仕には暗いイメージがぬぐい去れません。だからこそ、奉仕活動をわざわざより一層美化して、強制的な奉仕の後ろめたさを繕わなくてはならないのです。強制はその前提として、個人の損得勘定を想定しています。個人の利益だけを考えたら、やってくれそうもないから強制するのです。損得を考えずでなく、損得を考えささずに奉仕をさせるのが強制的な奉仕です。ここでは、強制を使ったが、これを義務に変えても大した違いがありません。

 ボランティアによる奉仕

 これまで、強制的あるいは義務的な奉仕に否定的なことを述べてきましたが、奉仕そのものを否定しているわけではありません。国家や団体・個人などいかなる第三者からの強制のない奉仕は、極めて尊く崇高なことです。言い換えますと、ボランティアとしての奉仕活動こそわたしたちが奨めなければならない奉仕活動なのです。ボランティアによる奉仕という重なったかとも思える言葉に、奉仕のすばらしさを最大限に発揮できる状態が隠れていたのです。奉仕活動の義務化をはかるより、奉仕活動にボランティア(志願)する人たちを増やすことに力を注ぐべきだと思います。


 班競争と教え合い

 奉仕と強制の関係に似たこととして、保育や教育の現場での班(グループ)競争があります。例えば、コマや剣玉などの技術の上達を班やグループ間で競い合うことで、みんながコマや剣玉が出来るようにと、導入された取り組みです。特に、その過程でこどもたちが互いに教え合うことを期待するあまり、班の全員がある水準に達しないと誰も上の段階に進めないきまりがもうけられたりすることもあります。

 このような取り組み自体は、貴重なことで否定はしませんが、教え合うことに損得を持ち込んだり、教え合いを半ば強制していたりしていることに留意すべきだと思います。自分が得をするから(そうしないと班が負けたり、自分が上のレベルに進めないから)、ひとに教えるのでは、せっかくのすばらしい行為が値打ちを下げてしまうのではないでしょうか。他のこどもの努力するひたむきな姿にうたれて、教えようとボランティア(志願)して、手をさしのべるそんなこどもがでる、もう一歩進めた実践を期待するものです。

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