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「育ち」と「育て」のハーモニー(1)
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 児童健全育成からの発想

 子育てに関わって、よく見聞きする言葉に「児童健全育成」があります。この言葉に、ずっと以前からどこかしら違和感を感じていました。そこで、あらためて「子育て」という意味を考え直してみることにしました。「いったい、子育てってなんやろ。(大阪弁)」という問いかけに、「そんなん分かり切ったことや。(同)」と、答えが返ってきそうです。しかし、本当にそうでしょうか。では、「子育て」と「児童育成」は、同じ意味なのでしょうか。また、「子育て」と「保育」の関係は、さらに「子育て」と「教育」の関係は。さらにさらに「子育て」と新語「子育ち」の関係は・・・・・などなど。分かり切っていそうですが、ちょとつっこんで考えればそうでもないことに気付きます。その点を順に考えていきたいと思います。

 「子育て」と「児童育成」

 「子育て」は、辞書などでは「子を育てること。」という意味になります。同じく「育成」は、「育て上げる。」なので、「児童育成」は「児童を育て上げる。」となります。同じ意味のようですが、実際のニュアンスとして、前者の「子」は「ある親に対する、その子」を意味し、後者の「児童」は「不特定の児童一般」を意味しているようです。だから当然、その行為の主体者(誰がするか)は、「子育て」は「その子の親」に、「児童育成」は「親及びおとな一般(社会)」となります。また、その行為の継続性で見ると、「子育て」は継続性が欠かせず「児童育成」には継続性が必要とされない場合があります。ここでさらに「子育て」を少しつっこんで考えてみる事にします。親のいない「子」や、親が「子育て」を放棄した「子」は、「子育て」されなくてもよくて、「児童育成」に託してもいいのでしょうか。

 「子育て」と「保育」

 「それは、違う。」と思います。何らかの理由で不幸にも、親に「子育て」してもらえない「子」は、不特定の「児童一般」には、されてはいけないと思います。その「子」達にも、親がするように(特定されて)継続的に「子育て」される権利があると思います。健やかな子どもの成長は、どの「子」にも完全に保証されている(されなければならない)からです。だからこそ、国や自治体は特定の「子(乳幼児)」を、不十分だとは思いますが「子育て」する様々な手だてをとっているのです。また、親に「子育て」してもらえないことは、親が労働や病気などである期間(時間)に限って、生じることがあります。そうした場合に、「子(乳幼児)」が、特定の対象として「子育て」される、「保育」があるのだと思います。その意味で、「保育」は「児童健全育成」ではないし、「児童健全育成」であってはならないのです。

 「保育」から「学童保育」

 つづいて、このながれで「学童保育」を考えてみると、「学童保育」は「子育て」であって「児童育成」であり得ないことは、自明のことだと思います。「子」は、小学生になっても「子」であることに変わりはないのです。すべての小学生は「子育て」されなければならないのですし、ある期間(時間)「子育て」してもらえない小学生は当然のこととして「保育」されなければならないのです。しかし昨今、「学童保育」を「児童健全育成」に解消しようとする動きが、一つのブームになっていますが、それは小学生から「保育」を奪い去るものだと言うことを明記しておきます。また、反対に不特定多数の「子」を対象にしておきながら、「子育て」だと偽る様々な動きにも注意を向けていくことが大切だと思います。

「育ち」と「育て」のハーモニー(2)

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