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「育ち」と「育て」のハーモニー(2)
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「育ち」と「育て」のハーモニー(1)

 「子育て」と「教育」

 「子育て」と「教育」の関係を考える前に、「教育」のことを少し掘り下げます。ただ、「教育」を全面的に論を展開すると、おそらくかなりの長文になりますので極めて簡単に論を進めます。「教育」には、学校教育・家庭教育・地域教育・社会教育などなど様々なものがありますが、その中でも子どもに関わる「教育」として代表的なものは学校での義務教育と家庭でのいわゆる躾(しつけ)があります。これらは、子どもがおとなに成長する上で必要な知識・技能やいわゆる道徳などを「教える」という行為・活動です。子どもにとって、この「教える」と言う活動がなければ、社会的に生活し得るおとなには成長できないのです。言い換えれば、子どもは「教育」があってこそおとなになれるのです。
(躾という言葉は、余り好きではありません。躾論は、またの機会にさせていただきます。)

 「教育」は「子育て」の構成要素

 そのことは、「教育」は「子育て」の重要な構成要素になっていることを意味します。また、ここではふれませんが、「教育」は「児童育成」の構成要素であることも忘れてはなりません。多くの魚類は、卵からかえってすぐに魚としての(成魚とほとんど変わらない)活動ができます。しかし、人間の子はそうはいきません。生まれてしばらくは、体も未熟ですし他の人との意思疎通もままなりません。だからこそ、長期間にわたる「子育て」が必要なのですし、読み・書き・ソロバン(計算)ができるように学校(狭義の教育)が必要なのです。このことは、極めて当たり前のことのようですが、それに反して「勉強は学校に任せて下さい。」「躾は家でやります。」といった声も聞かれます。この様な、「子育て」と「教育」を分けて考えるようなことだけは避けたいものです。

 「教え」と「学び」

 「教育」において「教え」の対になる言葉として、「教わり」があります。「教え」は能動的な活動であることに異論のある人はいないでしょう。一方、「教わり」を受動的な活動としてとらえる見方は意外と多いものです。しかし、この「教わり」は、「学び」という極めて能動的な活動無くしては成立し得ないのです。言葉をかえて言うと、「教え」という活動は、子ども達の「学び」という主体的な活動があって成り立つのです。一方的で押しつけの教育(躾)は、「学び」を消極的にし結果として成果を上げ得ないことが多いことは、その端的な例だと言えます。「教え」には、それとうまく調和した「学び」が必要ですし、反対に「学び」を促すには、それとうまく調和した「教え」が必要なのです。

 「学び」と「あそび」

 「教え」に欠かせない「学び」の別な姿というより特異な姿として、「あそび」における「学び」があります。子ども達は、あそび(遊び)を通していろんなことを学ぶと、広く言われています。ここでの「学び」は、多くの場合「教え」手のいない「学び」だと言えます。遊んでいる他の子から学ぶというより、「あそび」そのもから学ぶといったことが「あそび」の本質を指すひとつの姿だと思います。遊び方を教える時などを除いて、遊んでいる子どもらは多くの場合、全く対等・同等な立場にあるのです。いわば、「遊び」の参加者全員が学んでいるといった状況が存在します。ここで押さえていただきたいことは、「教育」では、作り出し得ない「学び」があり、それもまた子どもがおとなになる上で必要な活動なのだということです。
 この「あそび」の重要性は、「遊び学」風私論を参考にして下さい。

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