遊邑舎は、遊び学の発展を促します。 | |
「遊び学」風私論 |
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序 「遊び」とは? 「遊び学」風私論事始め 私は、二十年間に渡って、大阪市内にある保護者の会が運営する学童保育所で、指導員をやってきた。学童保育所は、今では多くの人に知られるように成ったが、私が勤め始めた頃は、ほとんどの人がご存じではなかった。「へー、こどもと遊んで、お金がもらえんのん(もらえるの)?」ということもしばしばで、いちいち真っ向から反論するのもどうかと思い「そやねん、ええやろ(そうです、いいでしょう)。」と答えてから、学童保育を説明するのが常であった。ともかく、放課後や夏休みなどにこどもたちと一緒に遊ぶことを、主な仕事内容としてやってきた。 それにより、こどもたちとともに遊びに費やした時間は、私自身のこどもの頃を、はるかにしのぐのではないかと思われる。まあ、よくも遊びに遊んだものである。これだけ遊べるのは、世の中広しと言えども、おそらく学童保育所の指導員だけだろう。かくて、私は遊びにかけては、超ベテランになった。小学生だった頃の我が長女が、私を称して「お父さんの仕事は遊び人。」と言ったのは秀逸である。それ以後、心中密かに現代の新遊び人を自負して、ひたすら遊びに磨きをかけたのであった。うまく磨きが掛かったかどうかはわからないが、一応ベテランには成れた。もちろん、ベテランはベテランでも、遊んだ経験の期間が極めて長かっただけで、そのことは遊びの理解、なかでも学問的な理解が深いことを意味するわけではない。 これまで、こどもたちに遊びを教える必要上、それなりに遊びに関する本を読んできた。また現在でも、遊びに関する出版物が、数多く発行されている。そこには、こどもたちの遊びをめぐるいろんな議論があった。こどもの暴力とテレビゲームとの関係、遊び場の減少、遊びの様変わりなどなど、様々な視点から遊びが論じられていた。そのなかには、なるほどといえるものも多かったが、「新遊び人」としては納得できかねる意見も、幾つかあった。その一つが、遊びそのもののとらえ方で、「遊びとは何か」ということである。執筆者の専門とする分野の違いにより、様々な遊びの定義やとらえ方があった。しかし、どれも部分的には共感できても、何か物足りないという感じが残った。それは、私だけの思いかもしれないが、「遊びとは何か」は、まだまだ多くの人が語れる余地は残されていそうである。 もう一つは、こどもの遊びに対するおとなの関わり方にまつわる問題である。この点では、かなりまだ言い尽くされていないことが多いと思う。教育や保育の分野では、こどもの遊びに対するおとなの関わり方が書かれた文献は比較的に多くあるが、その関わりは教育や保育の現場だけに限らない。家庭や地域においても、「こどもの遊び」への関わりは重要である。また、おとな個人だけでなくおとな世代として、いかにこどもの遊びと関わるかは、重要な課題と思われる。 この私論では、「遊びとは何か」をメインのテーマとしつつ、こどもたちの遊びに関わるなかで、遊びについて考えてきたことや、学童保育その他での実践を通して思いついたことなどを、私なりに整理し述べさせていただいた。これまで、遊びについて書かれた本の執筆は、ほとんどが心理学や教育学をはじめとする学者・研究者の方々によるものであった。教育・保育や子供会活動など、いわゆる遊びの実践現場からの執筆は、実践報告を除いてまだ少ないのが現状である。さらに「遊びとは何か」にこたえる実践現場からの執筆は、より一層少ないのだ。私は、今は現場から離れてはいるが、遊びの現場経験者として、これに挑戦してみた。「遊びとは何か」を考えるうえでの、これまでにない新たな視点が提起できればと大胆なことを考えている。 なお、本文では「進化論風考察」のように学術風を装っているが、この私論は学術論文でもなければ、研究論文でもない。遊びについての考えを進めるために、私なりの糸口や切り口として、動物学風などと銘を打って章をおこした。例えば、進化論風に遊びを見てみたらどうなるのか、というように私の遊びに対する思いを、仮説としてまとめてみた。当然、それぞれ本物の専門家の方々からみれば、用語の使い方や、その学問そのもののとらえ方に間違いや勘違いが、かなりあるかと思うが、それはその道ではずぶの素人のなせることとして、お許しを願うものである。仮に、そして万が一にも、この私論がそれぞれの専門家の方々が、「遊び」に関わっていただける僅かなきっかけとなれば、光栄の至りである。もちろんのこと、専門家ではないみなさん方にも、「遊び」により一層の関心を持っていただくことができたなら、「新遊び人」としての面目躍如となるであろう。
さらに、後に述べることになるが、ある種の動物にも拡大適用させる。例えば、動物の狩猟活動や給餌活動などは「労働」と見なす。さらに「学習」を、生活を営むためのいろんな技術や能力を、獲得したり高めたりするための狭い意味の意図的で能動的な学習とする。この狭いとは、この「学習」には、他の活動により二次的に付随しておこなわれる受け身的な学習は含まれないことを示している。また、こどもの頃の「遊び」のなかで、「オニごっこ」や「あやとり」など、いわゆるこどもの遊びそのものは「あそび」と書き分けていく。同様に、「労働」「学習」「遊び」の、「」(かぎかっこ)も前記の定義による語句に用いることとする。
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