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第一章 「遊び」の言語学風考察 目次へ 前の章へ 次の章へ

「遊び」と「自由」の密なる関係

 『遊』という文字を用いてつくられる漢字の熟語を思い浮かべると、大きく二つのグループに分けられるのに気付く。ひとつは、遊子・遊技・遊具など、まさに遊ぶという意味で使われたものである。もうひとつは、遊星・遊撃・遊牧・回遊などいわゆる遊ぶこととは少し感じの違う使われ方のものである。この違いはぜひ、みなさん自身でも漢和辞典をひいて調べてみていただきたい。きっと「なるほど」と思われることと思う。辞典の楽しみ方の一つでもある、みなさんもぜひ辞書で遊んでみてはどうだろうか。


 この第二のグループでぼんやりと私の心の端に浮かんできたのが、「自由」ということであった。なんら束縛するものがない自由な活動という連想であった。さっそく漢和辞典をひいてみたが、字義の項には連想した自由という文字は書かれてはいなかった。しかし、第二のグループに当てはまる字義からも、やはり私は束縛のない自由を連想した。「遊び」は自由なんだと、日頃「遊び」と「自由」の密接な関係に思いをめぐらせていた、私だけの連想かも知れないが。ところで、国語辞典には、「〔命令・強制や義務からでなく、趣味・レクリエーションとして〕自分のしたいと思う事をして、時間を過ごす。(三省堂新明解国語辞典)」とある。これは、「自由」の別の表現とも言える。この辞典の編者のように、遊びと自由の関係は、多くの先学が論じておられる。その関係が密接なことは私ごときが指摘するには及ばないかも知れないが、ともかく私なりに「遊び」と「自由」の密なる関係を、あらためて考えていきたいと思う。



「遊び」は動機フリー

 「遊び」は、自由だとしても、その「遊び」の何が自由なんであろうか。「遊び」そのものには、多くの場合それなりのルールや制約がある。反対にルールが無ければ成立しない「遊び」も多い。CUT-公園1ここで、さきほどの国語辞典の解釈を思い返してみると、どうも「遊び」に参加するか否かに、「自由」が存在すると思われる。その「自由」を、ここではひとまず「参加の自由」としておく。「遊び」を始める時、「遊び」に加わる時、「遊び」を行っている時、「遊び」をやめる時すべてにわたって、他の第三者に原則として束縛されない自由が保証されているのである。反対に、「遊び」にはそういった「参加の自由」が保証されていないと、厳密には「遊び」とは言えないと考えていい。


 「遊び」に「参加の自由」があるのなら、「遊び」をやるやらない、「遊び」をやめるやめない、そのきっかけ(動機)も自由になる。「遊び」をやるやらないの理由は詮索されない、いわば「遊び」に関してはその動機は何でもいいのである。言い換えれば動機フリーという状態が常なのである。ここに「遊び」のひとつの本質が存在すると考えていい。この動機フリーに、「参加の自由」を代行させても差し支えがないと思われる。


 ところで、「遊び」をする自由があるのと同様に、「遊び」を全くしなくてもいい自由も確かにあるが、本当に遊ばなくてもいいのかは、考慮の余地がありそうである。人間生活に「遊び」が不必要であれば、現在のように多種多彩に発展した「遊び」の姿はありそうにも思えない。さらに、おとなのなかには、まったく遊ばない超人?もいるかも知れないが、こどもはそうではない。先の震災の時ですら、避難所で無邪気に遊んでいる姿が見られた。また、別に遊ばなくてもよかったら、塾をさぼってまで親に内緒で、あれほど熱心に遊ばないものである。遊ばない自由があるのに、こどもたちが熱心に遊び続けることには、何らかの意味がありそうである。



「自由あそび」!?

 教育や保育そして学童保育の現場では、よく「自由あそび」という言葉が使われるし、実際にそのような実践が比較的に多くのところで行われている。そのような現場では、こどもたちの活動のひとつとして「あそび」が取り入れられている。こどもだけで遊ぶこともさることながら、先生方が何らかの意図を持って計画的に「あそび」が導入されている。いわば、ひとつの課業として「あそび」が展開されている。その「あそび」は、何をして遊ぶか、誰と遊ぶかなど、遊び方があらかじめ決まっている「あそび」なのである。例えば「伝承あそび」の時間、「みんなあそび」の時間というようにおこなわれている「あそび」である。


 そのような、設定された「あそび」に対して「自由あそび」がある。そして、その「自由あそび」は、こどもたちが自分で遊び方を決めることのできる「あそび」を指す。前者の様な設定「あそび」自体は、意義のある活動であり、後で述べるように「あそび」の変化に対応した、大切な活動も多くあることはいうまでもない。ただ、「あそび」が本来からして自由だということを考慮すれば、「自由あそび」は、違和感のある言葉だと思っていただけるだろう。「自由あそび」と断らなければならないように、設定「あそび」が本来の「あそび」とは少し違うのである。そのことを考えの端にでもおいて頂いて、設定「あそび」は「あそび」を題材にした課業としての活動と、位置づけて実践していただければと思っている。



「遊び」は子どもと仲良し

 当たり前のことだが、『遊』の字を見て気付くのは、構成部分として「子」という字が使われていることである。漢字のおこりはともかく、「遊び」が子どもと深い関係があるというより、「遊び」は元々はこどもの領分であったのかも知れない。大昔は、おそらく大人は遊んでいられるほど余裕がなかったからかと、ひとり納得している。ともかく、「遊び」はこども抜きにしては語れない、反対にこどもにとって「遊び」は欠かせないと理解していいのかもしれない。このことについては、後にひとつの根拠を示す。


 ひと頃前までは、「こどもの仕事は遊び。」と言われていたが、「こどもの仕事は勉強。」と言われるようになってからもう随分と時が過ぎ去った。「遊び」が、こどもの領分から抜け落ちてしまったのであろうか。そんなことはない。勉強に費やす時間が増えたり、「遊び」の姿が様変わりしたとはいえ、今もこどもたちは生活のかなりの部分を、「遊び」で費やしている。いつまでたっても、「遊び」はこどもと仲良しであることは間違いがないだろう。


 ここで、こどもの遊びに「あそび」でなく「遊び」を用いたのは、意味がある。こどもの「遊び」のなかで、「あそび」の占める割合が低くなってきたこと、他方でリトルリーグやピアノなどの、スポーツや趣味の占める比率が高まったことと関係がある。「遊び」は、依然としてこどもと仲良しには違いがないが、「あそび」は同じように仲良しであってもほんの少しだけ疎遠になったのだ。このことは、「あそび」の現代史風考察の章で詳しく述べる。「あそび」も、永遠にこどもと仲良しであってほしいと願っている。



『遊』は遊びにとどまらない

 古くから『遊』や『遊び』の用法は、単なる遊びだけでなく、娯楽や趣味や芸術など広く使われている。では、遊びとどういった共通性があるのであろうか。ひとつは、それを始めたり選んだりそしてやめたりするきっかけは、全くその行為者にまかされていることである。遊びも娯楽や趣味や芸術なども、前に述べた動機フリーという点で遊びと同じなのである。つぎの共通点は、それらは本来、心をなごませる楽しい活動だという点である。考えれば、これらの共通点は、ごく当たり前のことと思える。というより、遊びと娯楽・趣味・芸術などを分ける必要がなかったのだ。同じ「遊び」に分類される活動と考えた方がすっきりする。ここで、古くからの『遊び』の用法に学び、娯楽・趣味・芸術もいわゆる遊びも「遊び」ひとつにまとめるのが賢明だと考える。


 まとめられた「遊び」で言いあらわせる活動は、やるやらないの自由がある動機フリーで、やれば楽しくなる快感や満足感をもたらす活動となる。さらに前述の定義のように、それらの活動は生活や一生のうち、「労働」「学習」「休息」と共に生活の主要な構成要素でもある。やるかやらないかの動機フリーであることとあわせ考えると、「労働」から解放された時間で行われる自覚的で能動的な活動だといえる。「遊び」をやるかやらないかは、誰にも強制されないのだから、「遊び」をやる人の自覚的な「やる」という意志がないと、「遊び」は始まらないのだ。

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