第五章 「遊び」の現象論風考察
ウソの世界での「遊び」 まねごと・ごっこ
「遊び」は、現実の世界での進行するれっきとした活動でありながら、現実の世界をまねたウソの世界(虚構の世界)を「場」として、生産活動に直接関係のない世界を「場」として展開される活動といえる。いわば、ウソの世界の「遊び」により、現実の世界の追体験や疑似体験をしているとも言える。それは、「遊び」をそのおこり(起源)からみてみると、はっきりしてくる。一番わかりやすい例として、「学校ごっこ」「お母さんごっこ」など、こどもの「ごっこあそび」がある。言うまでもなく、現実の世界の出来事そのものが「何々ごっこ」として、「あそび」になった典型的な例である。その延長で考えると、将棋やチェスに類したゲームは、現実の世界での戦争を抽象化して、その進行過程を模倣しゲーム化したものと考えられる。おそらく、本物の戦争の時に使用された、作戦会議用のコマと作戦地図を転用し、発展してきたものであろう。これらは、「遊び」がまねている現実の世界の出来事が、比較的にわかりやすいものである。
それに比べ「ブランコ」などは、現実の何をまねているかがわかりにくい「遊び」である。さらに、今「ブランコ」で遊んでいる人が、何かをまねて追体験をしているわけでもない。その昔、生活のうえでの必要性から、木の蔓にぶら下がって木から木へと渡ったかもしれない。あるいは、敵に追われるうち、まったく偶然にそうなってしまったかもしれない。状況はともかく、その時えもいわれぬ快感を味わった人もあったであろう。その人は、その快感をもう一度体験してみたくなり、その体験をまねてやってみることは大いにありそうである。こうして、「ブランコ」を「遊び」として始めた人が出たのであろう。もちろん、始めは座る台のない「ブランコ」であったのだろう。それが、広まり伝えられるなかで、もはや誰もがそれが何の追体験かは忘れ去ってしまったのである。いったん「遊び」になれば、何をまねているか関係なく、面白ければ「遊び」として成立し続けるのだ。「ブランコ」は、まねている現実世界の出来事を意識すらしなくなった面白い「遊び」なのである。
絵画の起こり
さらに想像をたくましくして絵画について考えてみる。クロマニョン人の頃、またそれ以前かも知れないが太古の頃、絵(図)は他の者にあることを伝える、文字に代わる一つの情報の伝達手段として、現実の世界で大きな役割を果たしていただろう。その絵を見て、感激する事もあったろうと思うが、人の心をなごませることよりも狩猟や採集などの生活(生産活動)に必要だったから、「労働」の一部分として絵を描いたのであろう。また、宗教儀式で必要とされたにしても、古代における宗教儀式と生産との密接な関係を考慮すれば、やはり生産に必要とされたから描かれたと考えていいと思う。それが文字の発明や技術の発達とあいまって、「労働」としての絵画だけでなく、芸術(「遊び」)としての絵画へも発展してきたと考えていいだろう。もちろん、楽しみとして絵を描ける時間的余裕が生まれることは、欠かせない条件であったことは当然のことである。また、絵画は特殊な場合をのぞいて現実の世界の写しであるので、絵画そのものが現実の世界をまねたウソの世界そのものだとも言える。
落語や漫才はひとつの傑作
落語や漫才なども同じように、「労働」に欠かせない伝達手段としての言葉や会話を、芸術まで発展させたものと考えられる。落語や漫才は、言葉を使ってすばらしいウソの世界を作り上げ、それを聞く側には楽しいひとときをもたらせてくれる、人間の傑作のひとつである。それらが芸術、言い換えれば「遊び」と言えるのは、それがウソの世界を場にしているからである。このごろ頓にみられる、現実の世界の出来事をそのまま題材にしたり、他人の失態や欠点などを題材にして、笑いをとることが多くなってきたのは考えものである。
「あそび」には、二重の「遊び」もある。
こどもの「あそび」は、ただ単に、現実の世界を場にした活動だけを模倣したものだけではない。こどもたちは、「遊び」に分類される本式の野球をまねた、二塁ベースがなく庭球を使ってやる「三角ベース野球」という「あそび」を、いとも簡単に発明して遊ぶ。試合という仮の世界を場にして、進行する「遊び」をもう一度模倣したまねごとの世界で「あそび」が展開されているのだ。そういう意味では、二重にウソの世界を場にしているといえる。さらに、それをみて「三角ベース野球ごっこ」を始める、もう少し年下のこどもの「あそび」は、と考えたら「あそび」の際限の無さには驚きである。
「遊び」とウソさ加減
「遊び」がウソの世界を場にしているのなら、「遊び」とそのウソさ加減の関係はどうなっているのであろうか。「ケーキ屋さんごっこ」を例にとり、考えてみる。プラスチックで精巧に作られたケーキを使う「あそび」より、どろんこで作ったケーキを使う「あそび」の方が、融通性や発展性に富むことがすぐに理解できる。どろんこケーキは、いざとなればどろんこ寿司にも変身でき、洋菓子屋さんがお寿司屋さんに商売がえするのも簡単だ。プラスチックのケーキではこうはいかず、融通が利かず発展性に乏しいことがわかる。このことは、ほとんどの「あそび」にもいえることである。
「遊び」のウソさ加減が小さくなる、言い換えれば、「遊び」のリアルさが増せば、一般的には「遊び」の発展性が乏しくなるなるといえよう。「遊び」は現実の世界をまねたものであるが、まねることを追求しすぎ、リアルにまねれば、結果として発展性に乏しくなるのは皮肉なことである。さらに、「遊び」は発展性が乏しくなると、「飽き」の状態が近づいてきても、再び面白さを取り戻すのは困難になる。そうなると、「遊び」は「すたり」という終末を迎えざるをえないのである。先の例でのリアルなケーキでは、ケーキ屋さんに飽きれば、店じまいするのが関の山である。意地を張って、ケーキをお寿司に見立てて遊ぶこどもはほとんどいないであろう。
しかし、一方でリアルであればあるほど「遊び」に対する興味や面白さが増加することもある。そのことは、コンピューターの発達に伴う、テレビゲームのソフトの変化が物語っている。多くの人がリアルさに面白さを感じ、リアルなソフトを買い求めている現状がある。このリアルさを求める動きは、このところ急速に加速してきている。テレビゲームの是非はともかく、リアルさの追求は、結局は自らの墓穴を掘っていることと考えられるのだが。
「遊び」のリアルさの追求で危惧されることをもう一つだけあげる。同じ戦いを題材にした「遊び」でも、将棋やSケンなどに比べ、プラスチック弾が発射できるエアーガンによる対戦は、ウソの世界と現実の世界の差が小さい「遊び」である。その差が小さいという程度ならまだしも、ウソの世界と現実の世界の境が曖昧になる恐れがある。最近、その境を越えてしまったと考えられる事件が起きている。実際に、人がエアーガンで撃たれる負傷したという事件がそうである。リアルなウソの世界でなく、まるっきり本物の世界で「遊び」が進行してしまったのである。「遊び」の面白さの追求をリアルさだけに求めるのは、一考すべきことだと思う。
「遊び」の発生(「おこり」) 「遊び」の面白さとその自覚
「遊び」は、動機フリーという本質からして、促し、誘い、奨めなど他者からの働きかけ、時には強制があったとしても、「遊び」の始まりはそれを始める者の意志で決定される。では、その意志決定は何によって左右されるのだろうか。「遊び」にやる気を起こさせる魅力がないとだめなのは、どなたでも気付くことである。「遊び」が面白いから、やる気が起きるのである。そして、最も肝心なのは、「遊び」をやる前に、面白く思えることが必要なのである。「どうしてこんなに、他のみんなが楽しくやっている遊びをやらないのか?」と、首をかしげていたお母さん方も多いと思う。ここに、その答えがあったのである。やってみれば、すぐ面白さがわかる「遊び」でも、やる前はわかりにくいものである。整理をすると、「遊び」自体が面白く、その面白さが「遊ぶ」前に自覚されないと、「遊び」は始まらないということである。
特に、「遊び」が動機フリーだということを考えれば、この自覚が重要になる。それは、面白くない「遊び」でも、面白いと自覚した者は「遊び」を始めることがあることでわかる。事前の人気が高かったのに、不評だった映画が幾つかあるが、面白くない映画を面白いと思って見に行ったという点で、その典型である。もちろんのこと、間違った自覚により始まった「遊び」は、短命なのは言うまでもない。
ここまでは、主に初めて「遊び」を始めることを念頭に論を進めてきたが、過去に経験したことのある「遊び」を再び始めるときもほぼ同様である。違いは、過去の経験は、「あそび」の面白さを自覚するのには、手助けとなることがあげられる。「遊び」が面白いと自覚するうえでは、経験がものを言うのである。「遊び」が面白いことを、すでに知っているのだから当然である。また、すでに「遊び」が始まっているところへ、参加する時も同じように考えてよい。ただ、実際にやられている「遊び」が見られるのだから、自覚の形成には有利になる。以上が、「遊び」の始まりの様子であったが、「遊び」を始めない時の様子は裏返しにして考えればよい。「遊び」がやり始められなかったのは、その「遊び」はやるに値しないという、自覚が生まれたからに過ぎないのである。
「遊び」の発展(「流行」) 「遊び」の習熟
「遊び」は、進行するにしたがって、参加する個人・集団の習熟度があがってくる。そのことは普通の場合、「遊び」に面白さや楽しさを増加させ、その面白さや楽しさがあるレベルまで達すると、「遊び」は「はやり(流行)」という状態に至る。そのレベルは、やめようとは思わない程度に十分なレベルであることは言うまでもないであろう。いったん、「流行」の状態になると「遊び」の継続時間や期間は長くなってくる。こどもの「あそび」を例にとる。「ドッヂボール」は、参加しているみんながやり始めの頃は、当てるのも下手、逃げるのも下手で、それも「ドッヂボール」のうちかと思ってはみても、ゲームとして成り立っていないという状態がよくある。しかし、当てたり逃げたりあるいは受けたりの技術の向上にしたがって、面白さは加速度的に増大していく。そして、毎日のように「ドッヂボール」に興じる「流行(はやり)」の域に達する。これに比べ、コマまわしや剣玉などは、習熟度が上がりにくいのでなかなか「流行」の域に達しない。「流行」までの時間の長さは、「遊び」の習熟しやすさにかかっていたのである。
一方、「流行」そのものの継続時間は、その「遊び」のなかに起こりうる状況の多様さに比例して、長くなる傾向にある。その多様さから、時折もたらされる新鮮な刺激が、面白さをリフレッシュさせ、「流行」を持続させるのである。単なる「オニごっこ」より、少し複雑になった、どろぼう組と探偵組に分かれてやる「探偵ごっこ」の方が、一般的には「流行」の継続時間は長いものである。「遊び」の内容の複雑さは、「流行」の継続時間をのばすが、複雑すぎると「流行」までの時間を長くする。この二面性の兼ね合いのなかで、「遊び」の「流行」のいろんな姿が生まれるのである。
また、「遊び」によって起こりうる状況の多様さは、「遊び」の内容の複雑さだけでなく、前の章で述べたように、「遊び」の融通性や発展性の豊かさにも依拠している。融通性や発展性の豊かな「遊び」は、内容を変化させることで、その多様性を増加させ、「流行」の期間を長くするのである。ところで、起こりうる状況の多様さでみれば、テレビゲームは、起こりうる内容がプログラムとして決まっており、新鮮な刺激はその範囲止まりで、持続される「流行」の期間はその範囲に限られる。たとえ、爆発的に流行ったとしてもいっときで、年がかわってしまえば再び同じソフトが流行ることはまれである。「オニごっこ」や「探偵ごっこ」は、繰り返し繰り返し流行って、数十年にも渡って伝えられてきたこととは好対照である。単純に見える「オニごっこ」ですら、ゲームソフトに優っているのである。かなり膨大なプログラムが組み込まれたソフトでも、数人のこどもたちが生み出す状況の多様さには負けるのだ。
「遊び」の消滅(「すたり」) 「飽き」の自覚
「遊び」は「流行」の最盛期を過ぎると、遅かれ早かれその進行にしたがって、新鮮さがかけてくるなどのマンネリを余儀なくされていく。マンネリは、「遊び」の面白さを減らせていき、ついには「すたり」という終末を「遊び」に迎えさせるのである。マンネリだけでなく、もっと面白い他の「遊び」が現れることで、突然「すたり」が訪れることもある。原因はともかく、「遊び」の面白さより、つまらなさが優位に立ち、「飽き」が自覚されたときに「遊び」は「すたり」を迎えるのである。
この「すたり」の時期は、「流行」の終わりの時期と同じか、あるいは接近しているといえる。「流行」の項で述べた、「遊び」のなかで起こりうる状況の多様さは、「すたり」の時期が訪れる早さをも、決めるのは明らかなことである。「遊び」に、その多様さが乏しければ「すたり」は早く訪れる。前の項では触れなかったが、この多様さは「遊び」のなかみだけでなく、参加メンバー、場所、時刻など、その他もろもろの「遊び」を取りまく状況にも左右される。単純に見える「オニごっこが」が、以外に「すたり」の時期が遅かったり、毎年のように繰り返されるもう一つのわけがここにあったのだ。ここでも、いろんな状況に合わせられる、融通性がものをいったのである。プールの水の中でやる「オニごっこ」は、こどもに大変人気がある。小さな林の中でやる「オニごっこ」も結構楽しいものである。
「遊び」が単純だから融通性があると思われ勝ちだが、複雑な「遊び」でも融通性のあるものはある。「探偵ごっこ」がそうである。「オニごっこ」と大差がないのは、すぐ想像できる。他方、単純な「あそび」のひとつ、リアルなケーキを使う「ケーキ屋さんごっこ」の、融通性の無さは前の項で述べた通りである。ただ、複雑になり過ぎると、やはり融通性に乏しくなるのは致し方がない。この様に、「遊び」の、「流行」の長さや「すたり」の時期は、複雑性あるいは融通性や発展性の絡み合いのなかで決まってくるのである。要するに、「遊び」によってもたらされる状況の多様さが、それを決めているのである。「すたり」の時期が、以上のようにして決まったとしても、「遊び」はあくまで動機フリーで、「すたり」の瞬間は最終的には人の判断に任されている。「遊んで」いる者が、「飽き」を自覚し、「遊び」をやめようと決断したとき、「すたり」は現実のものになるのである。
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