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第七章 「あそび」の現象論風考察 目次へ 前の章へ 次の章へ

「あそび」の伝承

 「あそび」は書物に書いたり口伝えでも伝えられたりもするが、本来はこどもたちが遊ぶことによって伝えられるものである。こどもたちが、何年にもわたり「あそび」を流行らせてきた結果、「あそび」が伝承されてきたのだ。おとなが伝えることもあるかと思うが、流行もしない「あそび」は、伝える気も起きにくいし、伝えても流行りにくいのである。また、過去のある時期に流行っていた「あそび」を、おとなが伝えたとしても、こどもたちが流行らさなければ、それでたち切れである。結局は、こどもたちに頼らざるを得ないのである。


 こどもたちが伝えるといっても、こどもたちには、伝えなくてはならないという義務も自覚もない。こどもたちは、ただひたすら遊びたいだけである。しかも、面白く遊びたいのだ。その面白く遊びたいという思いが、「あそび」をふるいにかける。「あそび」を、流行るものとそうでないものに分けるのだ。そうして流行った「あそび」も、やがて「すたり」をむかえる。しかし、そのなかには年がかわって、再び「流行」を迎える「あそび」もある。そうした「あそび」こそが、伝承され得る選ばれた「あそび」なのである。選ばれた「あそび」のあるものは、さらに「流行」と「すたり」を繰り返し、そのメンバーが徐々に年下に移行するなかで、次の世代に伝承されていく。一言でいえば、「あそび」は「流行」を通して伝承されていくのである。これが、「あそび」が伝承されていく姿なのだ。今も、何年もの間、「流行」を繰り返している「あそび」があるわけだから、伝承される「あそび」の内容は変化しても、今も営々と「あそび」は伝承され続けているといえる。



悲しい姿の「伝承あそび」

 「伝承あそび」という言葉を、よく耳にすることがある。私も以前は、よく使っていた言葉である。伝承されて来た「あそび」を、「伝承あそび」というなら、かなりの「あそび」は「伝承あそび」になってしまう。比較的長い期間を経て、今までくりかえし遊び続けられてきた「あそび」を指すのであろうか。それでも「ドッヂボールあそび」は、十分その資格はありそうである。しかし、「ドッヂボールあそび」は、少なくとも今の時点では「伝承あそび」とは呼ばれてはいない。今日、「伝承あそび」といわれている「あそび」は、「コマまわし」や「お手玉あそび」、「カゴメカゴメ」などのように、どちらかと言えば「伝承され得なかったあそび」をさすことが多いのである。「伝承あそび」は、あそびの解説本に書かれたり、保育所や学校などで、おとなが手取り足取りして、一所懸命に伝承しなければならない、という意味での「伝承あそび」なのである。それは、「旧き良き時代のあそび」あるいは、「昔懐かしいあそび」、として思いでのなかで語られることが多くなった、悲しい姿の「あそび」なのだ。そんな「伝承あそび」の悲しい姿は、「あそび」が伝承されるには、何が必要かを示唆してくれる。


CUT-子ども達


面白い「あそび」は世代を越える

 「あそび」が伝承されるのに必要な要素の主なものとして、まず考えられるのは、「あそび」に世代を越えた面白さがあるかでどうかである。それがないと世代を越えることができず、伝承され得ないことは当たり前と思われる。しかし、「あそび」の魅力は相当なもので、少なくとも過去の一時期、流行った「あそび」の魅力は世代を越えるに十分なものが多い。保育や学童保育の現場では、「コマまわし」や「お手玉あそび」などは根強い人気がある。小学6年生までもが、「カゴメカゴメ」をしている無邪気な光景を目にすることもある。また、「探偵ごっこ」などは、ルールが少しは変わっても依然として、地域のこどもたちの間で伝えられている。どうも、面白い「あそび」は、世代を越えた魅力を持っているものが多いようである。もう一歩進めて言えば、面白い「あそび」には、伝承され得る力を奥底深く秘めている、といえるのではないだろうか。しかし、「コマまわし」や「お手玉あそび」、「カゴメカゴメ」などの「あそび」は、とても伝承されているとは言えなかった。「あそび」の伝承には、世代を越える魅力は必要ではあっても、それだけでは十分では無いようである。



技術のいる「あそび」の伝承

 「あそび」の伝承に必要な要素で、次にあげられるのは、その「あそび」に習熟したこどもがいる集団である。これは先に述べたように、「あそび」がこどもの遊ぶという活動を通して伝承されることから、おのずとして導かれる。習熟したこどもがいないと、「あそび」が流行って伝承されるどころか、その「あそび」すら始めることができないのである。「探偵ごっこ」が今でも伝えられ続けているのは、その「探偵ごっこ」に習熟しているこどもが、交代はしても地域やこども集団に存在し続けたからにほかない。それに比べ、コマ回しやお手玉などの「あそび」は、習熟しているという水準に達するには、それなりの技術が必要となってくる。そんな「あそび」が、伝承されるのが難しいのはうなずける。「あそび」の次の担い手に、技術まで伝えるには、それ相当の時間や労力がかかるのである。また、「あそび」の知識と技術を、持っているこどもが、少なくなれば伝承されにくくなる。だから、こどもに代わっておとなが伝えるという、特別の場合が必要となってくるのだ。


 つぎに、こども集団の人数に目を向けてみる。どんな「あそび」にも、それぞれに応じた必要最小限の人数がある。「オニごっこ」系統の「あそび」では、「オニごっこ」がオニともう一人の最少二人。「探偵ごっこ」は、捕まっても助ける人がほしいので、各組二人の計四人。「駆逐本艦(水雷艦長)」は、各組三人の計六人となる。これは、あくまで「あそび」をやろうと思えばやれる最少人数で、そんな人数では面白いかどうかは、はなはだ疑問である。ともかく、その人数が確保されないと、「あそび」は成立しないのである。しかも、同じ時間帯にである。「あそび」そのものの成立・不成立がそうであるなら、「あそび」の伝承にも、同じ時間帯に確保できる人数が関係しているのは、すぐにわかる。確保すべき人数が、増えれば増えるほど、伝承されにくくなるのである。最近、こどもの生活が多様になり、休日を除いて同じ時間帯に、遊べる人数が十分確保しにくくなっている。これは、「あそび」を伝承していくうえで、新たな関門ができたことを意味している。



時間と場所は、「あそび」を淘汰する

 さらに、「あそび」が伝承されるには、「あそび」が展開されるに十分な環境も必要となってくる。第一に、「あそび」が流行ることが可能になる時間・場所などの物理的条件が、保証されていなければならない。「あそび」の内容に応じた時間がなければ、「あそび」は流行ることも、伝承されることもない。現象論風考察Uで述べたように、「あそび」の習熟度が上がり「流行」に到達するには、「あそび」の内容に応じた時間が必要である。また、前項のように、人数確保にも時間が関係している。その時間が、確保されなかったら、「あそび」は流行らないし、伝承しないのである。


 また、場所についても同様で、流行る流行らない以前の問題として、そもそも遊べる場所が無ければ、「あそび」そのものが成立し得ないのだ。今にまで、伝え続けられてきている「あそび」の多くは、時間と場所の条件が確保されてきた「あそび」だったのである。別の言い方をすれば、時間と場所の条件が、「あそび」を淘汰(とうた)してきたのだ。私がよくやった「あそび」で、「宝踏みん」という「Sケン」を大規模にした「あそび」がある。この「あそび」は、およそテニスコート一面分もの広さで、しかも周りや地面に危険物がない所でないと、遊べない「あそび」である。今では、学校を除いては「宝踏みん」はできないというより、こんな場所をとる「あそび」は、ともすれば学校ですらできない「あそび」なのかも知れない。そんな「あそび」が、伝承されにくいのは自明のこととなる。かくて、「宝踏みん」は、淘汰に負けた、哀れな「昔なつかしいあそび」のひとつとなったのである。



「あそび」とマスコミ・コマーシャリズム

 「あそび」が伝承される得る条件として、重要視しなければならないのは、こどもを取りまく社会的な環境である。今や、保育園や幼稚園ぐらいでしか見られなくなった、ともすれば、そこですら影を薄めている「カゴメカゴメ」。この「あそび」がそうなったことを明らかにする糸口は、こどもを取りまく社会的な環境の変化にあると思われる。「カゴメカゴメ」は、技術も時間も場所もさらに遊ぶ人数もそんなには必要としない。そんな伝えやすい条件を持っていて、そうならなかったのは、どうしてであろうか。それは、「あそび」は動機フリーであることを考慮すると、こどもたちが「カゴメカゴメ」を選ばなくなったからに他ない。保育所などで、おとながやらなければ、こどもは自ら進んでは選ばなくなった。何故選ばなくなったかは、一概には特定は出来ないが、そうさせる社会環境の変化に求めるのが一つの筋であろう。


 社会変化のなかでも情報伝達の飛躍的な発展に伴う、「あそび」の情報伝達あり方の変化が、その候補としてうかぶ。以前は、「あそび」の情報は、直接見たり他人から聞いたりする、直接人間を介して伝達されるのがごく普通であった。最近は、マスコミやコマーシャリズムによる「あそび」情報の伝達の比重が爆発的に増えてきた。直接人間が伝達できる情報量に比べ、マスコミや企業の宣伝が伝達する情報量は途方もなく大きいものである。「あそび」は動機フリーであるが故、「あそび」が選ばれるには、その「あそび」の面白さがこどもに伝達されなければならない。「あそび」の面白さが、こどもに伝わるうえで、人間とマスコミやコマーシャリズムとの力の差は歴然としている。ゲームソフトの宣伝は、テレビや雑誌などで、毎日のように流されても、「カゴメカゴメ」の宣伝は皆無である。細々と、人が「カゴメカゴメ」の良さを、こどもたちに説いてやっても、それは多勢に無勢である。「カゴメカゴメ」よりテレビゲームを選ぶ子が多くなるのも、それだけが理由ではないとしても、その意味では納得できるといえる。


 そのマスコミやコマーシャリズムによる力のすごさは、時には面白くもないものを、あたかも面白いものとして伝達してしまう、という事実の存在が示しくれる。大々的に宣伝されたゲームソフトがかなり売れはしたものの、すぐにあきられてしまったソフトもあることがいい例である。まだ、判断力の乏しいこどもにとって、もたらされる情報が本物か偽物かの、区別がつきにくいのは当たり前のことである。莫大な情報の発信源との関わり方には、こどもだけでなくおとなも注意してあたる必要がありそうである。「あそび」の伝承に影響を及ぼす社会環境の変化には、まだ多くの変化があるかと思うが、ひとまずこれくらいにとどめておく。



「あそび」の伝播と地域色

 「あそび」の伝承は、世代を越えて伝わるという時間の流れに沿ったものだが、「あそび」は空間的に横にも伝わる。それが、「あそび」の地域内での伝播と、地域から地域への伝播である。「あそび」の伝播は、「あそび」の伝承と同様に、こどもによる「あそび」の実践を通して、行われるのが普通の姿である。「流行」が無くては、伝播もあり得ないのは、もちろんのことである。したがって、「あそび」の伝播に及ぼす条件は、「あそび」の伝承のそれとは、そんなに変わりはない。ただし、「あそび」の伝承と比較して、「あそび」の伝播は海や山などの有無、人口の密集度など地理的条件と、大きな関わりをもっている。特に、地域から地域への「あそび」の伝播は、地域を結ぶ交通網や情報網の発達状況に、大きく左右される。この交通網や情報網の発達状況は、こどもを取りまく社会的環境のひとつである。またしても、社会的環境の変化は、「あそび」の伝播にも決定的な影響を与えそうである。


 昔は、交通網や情報網の発達はそこそこで、ひとつの地域で流行った「あそび」が、他の地域に伝わるにも、それなりの時間が必要であった。一度伝わってしまえば、地域どうしの関わりの薄さから、「あそび」が独自に発展していく。その発展の仕方は、別の章で述べるとして、その発展の結果、同じ内容の「あそび」でも地域独特のバラエティーに富んだものになっていく。それは、「ケンパ」の地域的な個性のある様々な発展の仕方をみれば、おわかりいただけると思う。大阪市内だけでも、一昔前までは、いろんなやり方の「ケンパ」があったのである。


 昔のそのような様子から一変するのがいまの状況である。マスコミやコマーシャリズムのもたらす情報は、CUT-子ども1深い海も高い山も関係なく、同じ内容を瞬く間に伝える大きな力を持つ情報である。住んでいる所に関わらず、みんな同じ「あそび」をやっていたということも、めずらしくなくなっている。テレビのバラエティー番組でやっていたクイズを、ちゃんと「あそび」に取り入れて、全国各地で遊んでいたのは、記憶に新しい。同じテレビゲームソフトが日本全国一様に買われ、みんながテレビを相手に遊ぶ、そこには地域的な個性のある遊び方など生まれようがないのである。地域色のない「あそび」の良い悪いはともかく、そんな「あそび」がでてきた事実をよくかみしめたいと思う。

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