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第八章 「遊び」の弁証法風考察 目次へ 前の章へ 次の章へ

「遊び」と「労働」・「学習」との対立  外的矛盾

 「遊び」と、「労働」・「学習」とは、本来は対立しないものだが、時間的・空間的な制限から時と場合によっては、極めて厳しい対立を生むこともある。「遊び」の外的矛盾として、「労働」や「学習」との対立が考えられるのである。進化論風考察の章でふれたように、もともと「学習」と「遊び」の出現は、「労働」から解放された時間ができたことと、密接な関係にあった。その後、「学習」が義務的になっていくなかで、「学習」が「労働」の方へシフトしていった。こうして、「遊び」は限られた時間を、「労働」・「学習」と分かち合うようになったのである。その分かち合いが時には対立となって、その時々の「遊び」のあり方を決めてきたのである。その端的な例は、現代のこどもたちには「あそび」の時間や場所が少なくなって来ていることを、憂える人が増えてきていることにあらわれている。もちろん、そのように考えない人も多くおられるかとも思うが、こどもたちの「あそび」の様相は、かなり様変わりしてきていることは大多数の人が認めることと思う。すべてではないとしても、その様変わりが「遊び」と「労働」・「学習」がせめぎ合う、両者の間の矛盾によっても形作られてきているのである。



「あそび」時間の変化は、何をもたらせたか?

 こどもたちがテレビゲームに熱中すればするほど、「学習」の時間が減ると親たちが嘆き、反対に通う塾が増えれば増えるほど、「あそび」の時間が減るとこどもたちが嘆く。まさに、「遊び」と「学習」とが、時間的な制限のなかでせめぎ合っている典型的な例である。現在のところ、「あそび」時間は減少もしくは夜の方にシフトする傾向にあり、勉強に代表される「学習」時間が、徐々に優勢になってきている。塾や習い事で、放課後の時間が切れ切れになったりもする。これらの条件は、「あそび」にとってはかなり厳しい条件である。そうはなっても、こどもたちは、時間が短くなろうが、夜になろうが、細切れになろうが、たくましくもけなげに遊びを続けるのだ。


 しかし、そうした変化は、「あそび」の伝承の項で述べたように「あそび」に淘汰をかけ、生存競争に勝ち残った「あそび」のみが繁栄するのである。夜でもひとりで遊べ、しかも中途でセーブもできるテレビゲームは、うってつけの「あそび」といえる。ロールプレイングのテレビゲームに、セーブ機能がなければ、あれほど爆発的なもて方はしないものである。ところが、それ以前の「あそび」の多くは、そうはいかないのである。「どうま」は、途中ではセーブはできない、仮に中断後再び始めようとしても、同じメンバーが集まる保証はどこにもない。「どうま」は、一人ではできない、最低四人は必要である。「どうま」が劣性で、影をひそめなければならないはずである。



おとなの「遊び」時間は増加傾向

 こどもの「あそび」時間が減少傾向であるのに、反比例するかのようにおとなの「遊び」時間は増加の傾向にある。太古の昔、成人になったヒトは「労働」に追われ、「遊び」どころではない日々をおくることの多かったことや、過労死まで出る今の状況を思うとき、これは、大変喜ばしいことである。「遊び」時間の増加は、時間的な縛りから多くの「遊び」を解放し、「遊び」を大きく発展させる機会をつくった。手作りカヌーやトレッキングなど、じっくりと時間をかけられ、ゆったりとした気持ちでやれる「遊び」が、特別な人に限らずできるようになるのだ。このように、娯楽から芸術・スポーツにいたるまで、今日の数限りなく多様に発展した「遊び」の姿をみる時、あらためて「遊び」の発展に時間がいかに影響を及ぼすかを、再認識させてくれる。



「あそび」の場所は、移ろいゆく

 街自体が、生産性を高めるために発展し、一見非生産的な広場や空き地などの、こどもの「あそび」場が箇所数と広さの両面で、減少の一途にあることは否定できない。公園といっても、幼児やお年寄り向けに作られ、よくボール遊び禁止の表示がしてある。何もない広場は、学校と競技グランドぐらいで、あまり見かけない。何もない広場は、何もないから工夫しだいで何でもできるのにと、ついひとりぼやいてしまう。ともかく場所をめぐって、「労働」と「遊び」がしのぎあっているのだ。


 こうした「遊び」と「労働」の対立の狭間でも、こどもたちはしたたかに遊び続ける。新たに、ゲームセンターやマンションのエレベーターなどが遊び場として登場してきている。そんな新しい遊び場のひとつに、塾の前の路地がある。待ち時間を使って「リズムゴム飛び」をしているこどもたちを見かけた。ほほえましくもあり、どこかしら違和感を感じるひとときであった。そして、現在のこどもの遊び場として、おそらく最も長い時間を過ごすのがテレビの前だと言われている。このこと是非はそれぞれの自覚にお任せするとして、このように「遊び」が時間的・空間的制限から「労働」と対立しているからこそ、その時代時代に特有な「あそび」の状態が生まれる。「あそび」の場所は、世の流れに時には逆らいながらも移ろいゆくのだ。



「やる気」と「嫌気(いやけ)」  内的矛盾

 「遊び」をめぐる内的な矛盾として、「遊び」そのものからみれば「面白さ」と「つまらなさ」があげられ、「遊ぶ」主体者からみれば「やる気」と「嫌気」があげられる。面白さとつまらなさは、連続した性質とも考えられ、対立を持ち出すのはおかしいと思われるだろう。正確をきせば、面白さをもたらす要因とつまらなさをもたらす要因の対立であり、やる気を起こす要因と嫌気を招く要因の対立として考える。その対立を、「遊び」の内部矛盾と考える。ここでは、一応「面白さ」・「つまらなさ」や「やる気」・「嫌気」に代表させておく。例えば、「あそび」が長びけば長びくほど、マンネリという「つまらなさ」が、「あそび」がそれまでもっていた「面白さ」の前に立ちはだかる。「あそび」に飽きが来るか、工夫により「あそび」が発展変化するまで、両者はせめぎ合いを続けるのだ。また、「やる気」と「嫌気」は、両者それぞれにそれを感じる個人があるわけだから、「遊び」の構成員どうしの対立や矛盾として表面化することもある。



異年齢集団と「あそび」

 年齢差による力の差の出る「あそび」は、比較的に矛盾を引き起こしやすい「あそび」である。こどもの「オニごっこ」の発展のケースをみてみよう。こどもたちが「オニごっこ」であそんでいるところへ、二つ三つ年下の子が「よして(入れて)」と来たとする。「あんた、足が遅すぎるからすぐオニになるで」とやんわりと断られることもある。特定の子がオニばかりでは、年上の子も年下の子のどちらも面白くなくなるからである。追いかけてもすぐ捕まえられる、逃げてもすぐ捕まってしまうのでは、「オニごっこ」の面白さも半減である。


 あるいは、親切にルールを、タッチされてもじゃんけんでオニを決めるなどに変えて、入れてもらえることもある。ダイナミックさが乏しくなりはしても、そうすればみんなが楽しめる。異年齢のこどもの集団には、年齢の違いによる「やる気」と「嫌気」の程度の差が生まれ、そのことが「あそび」のなかに矛盾を呼び起こし、「あそび」がいろんな発展の仕方をとるのだ。



地理的条件と「あそび」

 また、地理的な条件により、「オニごっこ」をやる場所が限定されると、「オニごっこ」は、いろんな変化をとげることがある。逃げる場所がないからすぐにオニに捕まってしまうので、つまらないから「やめた」となる場合。ケンケンをしてやることにより、オニも追いかけにくくするルール変更で、乗り切る場合もある。「あそび」の展開される場所の違いは、その「あそび」を構成するこどもの個性の違いから、「面白さ」と「つまらなさ」に変化をもたらし、またしても「あそび」のなかに矛盾が巻きおこり、いろんな変化を遂げる。いろんな形式の「オニごっこ」の幾つかは、こうして生まれてきたと考えると、こどもたちのすばらしさを改めて再認識することができる。このように、「あそび」の「面白さ」と「つまらなさ」の対立の解消の仕方によって、「あそび」が消滅することもあれば、反対に様々なバリエーションで発展継続することもある。「あそび」を構成する集団の年齢構成や、「あそび」の行われる場所や季節などの外的要因や、前述の外的矛盾によって、内的矛盾が起こり、「あそび」の発展・消滅の姿に多くの変化をもたらすのである。

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