第九章 「遊び」の現代史風考察
大企業の「遊び」への参入
「遊び」をめぐる、第二次世界大戦後から現在までの移り変わりを見ると、すでに述べた「あそび」の様変わりだけでなく大きな変化が見出される。「遊び」が大商いになるということである。「第二の遊び」と定義した趣味・娯楽などは、昔から商売になっていた。また、昔でも玩具を扱う店屋があったので、いわゆるこどもの「あそび」も商売になっていた。しかし、今日の状況に比べると、規模の小さい商売である。現在では、大企業が主要な営業部門として、「遊び」に参入するまでに至っている。そのことは、「遊び」が莫大な利益を生み出す市場へと成長したことを意味している。携帯ゲーム機のキャラクターを主人公にした映画が、短期間に数十億円もの利益を上げているのである。これは、「遊び」をめぐる戦後の変化のなかで、最も大きな歴史的変化であると言える。特に、「あそび」が大企業のターゲットになったことは、「遊び」全般の変化より衝撃的な変化である。その変化の片鱗は、これまでの章でも述べてきたが、ここで「あそび」の変化を中心に、もう少し詳しく述べることとする。
その変化として、まずあげられるのが、ウソの世界の「あそび」をやることで、現実の世界の企業間競争のまっただ中に、こどもたちが引きずり込まれるまでになったことである。その典型的な例が、テレビゲーム機の開発競争に見られる。ゲーム機は、ソフトがなければただの箱である。ゲームソフトは、ゲーム機のメーカーが開発することもあるが、ほとんどがソフト専門企業が開発する。このゲームソフト開発には、億単位の資本が投下され、それを回収できるか否かは、企業の存続にも関わる重大事である。そこで、ソフト開発企業は、販売台数の多い人気ゲーム機のソフトを主に手がけるようになる。その結果、競争に負けたゲーム機にはソフトが、決定的に不足する事態が起こる。そんなゲーム機を買ったこどもたちは、ただの箱同然になってしまったゲーム機を抱えて、地団駄を踏むのである。競争に負けた企業のゲーム機を買ったこどもが、バカを見るのは日常茶飯事のこととなったのである。
企業間競争の特殊な例として、偽ブランドの問題がある。一時期、生物を卵から育てる育成型ゲームウォッチが爆発的なブームを巻き起こした。人気が生産を上回り、品薄でなかなか手に入らず、偽のブランドのゲームウォッチが販売されるまでになった。それを手にしたこどもの多くは、手に入った喜びより、偽物しか手に入れることができなかった、くやしさを味わったものである。これまでも、すっぽかされたり遊びに入れてもらえなかったりで、「あそび」を通してバカを見たり、くやしさを味わうこともあった。しかし、その相手が具体的で、誰に怒りをぶつけるかは、はっきりしていた。今日ほど、怒りの対象が不確かなことはなかったのである。今のこどもたちは、せいぜい親に見当違いの怒りをぶつけるのが普通である。
「あそび」により、こどもたちが親まで引き込んで一喜一憂する、しかも全国的あるいは地球的規模で同時多発する。こんな事態は、大企業が「あそび」に参入するまでは、ほとんど見られなかった。このように、同じ事態が広域に同時多発することが、大企業の競争により「あそび」にもたらされた変化のひとつなのである。
ベッタン(メンコ)とカード
大企業の参入による「あそび」の変化として、つぎにあげられるのが、「あそび」の内的矛盾の変化である。「あそび」が、儲けの対象になったことにより、「あそび」の内的矛盾として、新たに「儲かる要素」と「儲からない要素」との対立が、もたらされるようになった。それが、大企業の参入により、「あそび」の変化を決定づける、主要な矛盾となったのではないかと思われるのである。「あそび」の発展方向として、面白くなるという方向もさることながら、儲かるという方向が超クローズアップされてきたのである。
その「儲かる要素」をもっている、最も代表的な候補が、玩具(おもちゃ)や遊具である。玩具・遊具を必要としない「あそび」では、なかなか儲ける方法が見つけにくく、遊び方を書いた本の出版ぐらいしか思いつかない。だから、昔から、玩具や遊具を必要としない「あそび」は、儲けの対象とはならなかったのである。
その玩具のなかに、ごく庶民的なものとして、面子(メンコ)・カード類がある。メンコは、大阪ではベッタンと呼ばれいろんな遊び方があった。手を巧みに使いこなし、裏返したり、遠くへ飛ばしたり、台から落としたりして遊んだもので、身体を使って遊んでいたのである。遊びの結果、普通は勝てば相手のベッタンをもらえたものだ。また、遊びでいるうちにボロボロになってしまうことも多く、ともかく負けたり痛んだりで、ベッタンは消耗品であった。しかし、単価が安かったからこどもたちは、すぐにベッタンを補給できた。補給ができればまた遊べる、遊んだらベッタンは消費される、こうした繰り返しが続いたものである。だから、ベッタンの単価は安くとも、遊ばれることにより、需要は比較的に長く続き、小さな駄菓子屋さんでもそれなりの儲けになっていた。製造業者も、大儲けほどではないとしても、商いにはなっていた。ベッタンの単価が安いこと自体が「儲かる要素」にもなっていたのである。
それが、「取ったり取られたりは、賭け事に通じるので良くない。」と禁止されたり、いわゆる「あそび」の様変わりのなかで、依然として買う子はいたとしても、だんだんベッタンで遊ぶ子は減っていった。当然、ベッタンが売れる数は減っていく。儲けを維持するひとつの方法として、一枚の単価を上げる方法が選択される。といっても、ただ単価を上げるだけでは売れないので、ベッタンに、絵に凝ったり大きく厚くしたりの、付加価値を付けるようになる。ともかく、単価が高くなったベッタンでは、遊び方にも変化を余儀なくされる。単価の高い綺麗なベッタンは、遊んで痛めるには勿体なくなる。だから、ベッタンと身体を使って遊ぶというより、ベッタンを蒐集して楽しむようになっていくのである。
こうした流れに、大きな企業が参加してくると、その流れに拍車がかかってくる。企業は「儲かる要素」として、より蒐集してもらえる要素をベッタンに持ち込むようになる。特定のベッタンに希少価値を持たせるのだ。何十枚に一枚のレアなベッタンが出現する。こうなれば、ベッタンと呼ぶよりカードと呼ぶのがふさわしくなる。何千枚かに一枚の超レアなカードの販売をめぐって、パニック騒動も起きるくらいである。そのカードを使って対戦ゲームができるのは、まだしもの救いと言えよう。以上が「あそび」の新しい内的矛盾としての、「儲かる要素」と「儲からない要素」のせめぎ合いが、ベッタンにもたらした変化である。
この新しい矛盾は、現代を象徴する玩具、テレビゲーム機が大企業により大量に普及されることで一層深まる。「あそび」から、「儲からない要素」が極力排除されていくだけでなく、儲けの対象にならない「あそび」そのものを、駆逐していくようにもなるのである。このことは、すでに「あそび」の現象論風考察の章において、マスコミ・コマーシャリズムとの関連で述べたので重複はさける。現在のところは、儲からない「あそび」は、駆逐されつつも、全く無くなったわけではない。しかし、今後の推移がどうなるものか不安に思っているのが、正直な私の心境である。
人間関係とゲーム機
戦後の「あそび」の変化で、触れなければならないことに、テレビゲーム機や携帯ゲーム機の出現が招いた、もう一つの変化がある。ゲーム機の特徴に、一人きりでも遊べるということがある。友達のあまりいないこどもにとっては、いつでも遊んでくれる「友達?」ともいえる、頼もしい味方ともなっている。また、ゲーム機「あそび」がきっかけで、本物の友達を見つけられることもある。しかし、そこには思いがけない落とし穴が口を開けていたのである。一人でも遊べるということは、他人との関係を持たずに、「あそび」が続けられることである。このことは、少なくとも「あそび」の最中は、人間関係を拒否して遊び続けられることをも意味する。「あそび」は本来、人間関係のあり方を学べる、人間関係の自然塾でもあった。しかし、ゲーム機あそび」は、その機会を少なくする特徴をも内包していたのである。人間関係が薄くなれば、そこから学んで得ることも少なくなるのは、明らかなことである。
さらに、ゲームソフトは今のところ、人間関係を豊かにするようには、作られていないのである。確かに、対戦モードやキャラクター交換など、複数人数で遊べるようなソフトもある。しかし、それは、あくまでおまけであり、複数人数で遊ぶことが、必須条件となっているソフトはない。ソフトを購入してくれる層が、遊ぶのに必要な人数により制限されるということは、儲けるうえでマイナス条件ともなる。一人でも遊べないようなソフトは、儲からないのである。だから、ゲーム機「あそび」に潜む落とし穴は、ふさぎようの無いのが現在の状況である。
人間関係を希薄化させる傾向のある「あそび」は、なにもゲーム機「あそび」に限ったことではなく、いわゆる「一人あそび」全般にも言えることである。このことが、次章で述べるように、「一人あそび」が軽視される要因ともなっている。しかし、この「一人あそび」に大企業が参入してくると、状況は一変する。ゲーム機「あそび」には、儲けの対象として、莫大な開発費と膨大な宣伝費が投下されている。それ故、人を引きつける面白さでは、その真偽は別としても、他の「あそび」を凌駕している。その結果、いったんゲーム機「あそび」に、はまり込むとなかなか抜けきれないという、困った状況が起こりうる。このことが、同じ「一人あそび」でも、ゲーム機「あそび」の特徴である。
また、ゲーム機「あそび」は、サッカーゲームに見られるように、一人ではできなかった「あそび」を、コンピューターを相手にすることで、一人でもできる「あそび」に変えたりもする。こうして、現代に生きるこどもたちは、テレビの視聴を含め「一人あそび」に費やす時間を、否が応でも長くさせられる仕組みのなかで、過ごすようになったのである。しかし、仕組みは仕組みで、「あそび」はあくまで動機フリーである。ゲーム機にのめり込むか否かは、人任せだ。しかも、ゲーム機「あそび」にも、良いところもあるので、全面的に拒否せず、適切につき合いをしていきたいものである。
|