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第十章 「遊び」の教育論風考察 目次へ 前の章へ 次の章へ

良い「あそび」と悪い「あそび」

 「あそび」の良い悪いの評価は多くの場合極めて相対的なもので、その判断基準の違いによって評価は全く反対にもなることがしばしばである。ひと頃、お母さん方の間で意見が闘わされた家庭用ゲーム機の是非論があった。「目を悪くするから良くない。」「外で遊ばなくなるからだめ。」「コンピューターに慣れるのでいい。」「機械に強くなるから良い。」など、様々な評価が下され未だにその論争?が続いているようである。そんなこととはうらはらに、今やかなりの家庭に普及してしまった。このことは一見、是認派が勝利したかのように見えるが、困り果てた結果として使用制限になった家庭も増えてきている。これは、家庭用ゲーム機には、これまでの「あそび」に無かった魅力があり支持もされる反面、これまでの「あそび」に無かった問題点も生まれ危惧もされる、二面性があることのあらわれである。ゲーム機にとどまらず、「あそび」には、良い面も良くない面も程度の差はあれ両方もっているものである。「あそび」は、時と場合によっては、良くもなり良くなくもなるのだ。



「遊び」としての「いじめ」

 悪い「あそび」として評価しても差し支えのない「あそび」の特殊な例として、「遊び」として展開される「いじめ」がある。一方的思いこみも含め、いじめる相手側にそれ相当の納得のいく理由がないのに、やられる「いじめ」である。相手が誰であるかに関係がなく、ただ「いじめ」が面白いからという理由だけでやられる「いじめ」がそうである。攻撃によってもたらされる快感や満足感にのみが目的となった「いじめ」である。面白いからいじめるという極めて悪質な「いじめ」で、ひとすじなわではいかない「いじめ」である。このところ、こういった「いじめ」が増えてきているのは考えものである。


 「いじめ」を「遊び」という観点からも見なおしてみると、「いじめ」理解のひとつの方向が見えてくるかも知れない。「あそび」は動機フリーで、「遊び」には必ず、その「おこり」「はやり」「すたり」がある。「いじめ」に面白さを感じさせない、「いじめ」をおこさずはやらせず、早くすたらせるには、どうすればいいのか、と考えるのも無駄ではないだろう。その解決方法は、この本の限界を超えるので、別の機会に考えていきたく思う。蛇足だが、理由のある特定の者に対する「いじめ」をはじめとするどんな「いじめ」も、決して許されるものではないことは極めて当然のことである。



「内あそび」は「外あそび」より悪い「あそび」?

 比較的普通にある考えとして、「内あそび」より「外あそび」の方が良い「あそび」という考えがある。その極端な例として、「外あそび」はできるだけ多くやった方がいいと、量的に絶対視することである。その結果「内あそび」を軽視し、良くない「あそび」としてさげすむ考え方である。そうまでもいかないけれど、「内あそび」をしているこどもに何か後ろめたい気持ちにさせる声かけを時々耳にする。それは「内あそび」を、「外あそび」に比べ不健康なこどもらしくない「あそび」と、決めつけてしまっている時によくある。これらの例の多くは、屋外の広々とした、降り注ぐ太陽の下で云々、と言う健康的な環境を、唯一の基準として「あそび」の善し悪しを、判断している所からきている。風雨をしのげ暑さ寒さから身を守ってくれる環境を基準におけば、その判断は逆になってしまう。「内あそび」も「外あそび」どちらも大きく度を超せば良くなくなり、その「度」はいろんな要素によって変わってくるのだ。カンカン照りの時と穏やかな日差しの時では違うし、こどもの体調によっても違ってくる。



みんなで遊ぶのは、いいこと?

 これまでと同様に、「集団あそび」と「一人あそび」の関係も同じである。その「集団あそび」の極めつけは「みんなあそび」だが、このみんなで遊ぶことにこだわりすぎる専門家が意外と多いのに驚かされる。もちろん、みんなで遊ぶことに反対するひとは、私を含めいないと思うが、みんなで遊べない理由をこどもだけに求めることがある。「あそび」から外れたこどもや、「あそび」に入れてあげられないこども集団の側だけに、その問題点を探そうとすることである。「あそび」そのものに、みんなで遊べない理由があるのに、それを見落とす結果になる。みんなで遊ぶには、力の差によらずみんながそれなりに対等に参加でき、しかも同時にみんなの興味をひく「あそび」でないと難しくなる。「みんなあそび」にみんなで遊べる用件が必要となってくるのだ。


 当然、その用件はこども集団の状況に大きく左右されることは、いうまでもない。こども集団が大きくなりその構成がバラエティーに富めば富むほど、それは厳しくなる。また、先にふれたが、「遊び」は動機フリーである。「あそび」に加わるかそうでないかは、あくまでの自由意志であり、何らかの強制が入るのは「あそび」本来の姿からそれるものだと思う。むやみな強制は、かえって「あそび」に入れないこどもを「あそび」から遠ざける結果を招きかねない。また、集団の側へのむやみな強制も、「あそび」をつまらないものにしてしまい、「あそび」を終わらせてしまうことにもなりかねない。教育や保育の現場では、課業として「みんなあそび」的活動(「あそび」そのものではない)が時々展開されるが、「みんなあそび」の限界をしっかりとおさえて取り組まれることを望むものである。



おとなが関わる「あそび」

 教育・保育・学童保育・子供会などの現場では、それぞれの活動の一環として「あそび」が展開されている。なかには、「旧き良き時代のあそび」を、こどもたちに伝えようとする多くの取り組みがなされている。私も、かつて学童保育で悪戦苦闘した経験を持っている。この様な、おとなが直接参加して関わる「あそび」は、こどもだけの「あそび」とは質的な違いが生じるのがほとんどである。「あそび」におとなが入ると、「あそび」の主体者が遊んであげる立場のものと、遊んでもらう立場のものとに、明確に分かれることである。なかでも、おとなが何らかの意図や目的を持って「あそび」に参加した場合は、その立場の違いが際だつことである。こどもだけの「あそび」には、教え教えられる立場の違いは「あそび」のごく一時期に現れるだけで、立場の違いが無いのが本来の姿である。遊んであげる立場の存在が、「あそび」とは別の意図を持ち込めば持ち込むほど、「あそび」の姿は変わっていくと考えていいだろう。専門家のなかには、それはもはや「あそび」ではないと言い切る方も多くおられる。少なくとも「あそび」本来の姿ではないと思われるので、幾つかの例で考えていく。



おとなは「あそび」より魅力的!?

 おとなが直接「あそび」に加わって遊んでいる時に、留意しなければならないことがある。おとなが今まであそんでいた「あそび」を抜けると、すぐに「あそび」が終わってしまう事態がときおりおきる。こどもたちの知らない新しい「あそび」を教える時には、よく経験することである。「何で、あんなに楽しく遊んでいたのに?」と、不思議に思う。よくよく考えてみると、こどもたちは、「あそび」そのものが面白かったのではなく、おとなと一緒に遊んでもらうことに魅力を感じていたのであった。「あそび」をこどもたちの間で流行らせたいと願うおとなの思いとはうらはらに、「あそび」の内容よりおとなとの遊びにひかれていたのだ。こどもたちが「あそび」そのものに魅力を感じているか否かが、その「あそび」をこどもたちの間で流行らせるか否かを決める。「あそび」がこどもたちの間で定着するまでは、おとなはその「あそび」に入ったり抜けたりして、こどもたちがその「あそび」に習熟するのを待つ他はない。「遊び」の現象論風考察Uで述べたように、「あそび」の習熟は、「あそび」そのものの面白さを高め、「あそび」を「流行」の段階へ導いてくれるだろう。



時には、忍者のように

 「あそび」におとなが関わると、ついいろんな規制を加えてしまいがちである。管理的な役割も担う保育園や学校などの現場では、なおさらのことだと思う。危険な「あそび」を禁止することは理解できないわけではないが、小学校によってはコマや剣玉まで禁止されているそうだが、これはどうかと思う。こういった極端な「あそび」の規制はさておき、おとながこどもの「あそび」に口出しをすることは、結構ある。ここで「あそび」の規制の是非を問題にしているのではない。おとなに規制しているという自覚がたとえなくても、おとなの規制によって、「あそび」が変化を余儀なくされるということに、注目することが重要なのだ。ずるい子がいて、ルールを無視したり、勝手に変えたりすれば、おとなはついつい注意したくなる。注意したから解決をし、みんなで楽しく遊び続けられたという場合もある。「あそび」が人間関係の自然塾であることを思い起こすと、そのことは、こどもたちだけで解決し学ぶ機会を逃がしてしまうことでもある。


 注意するしないのどちらがいいかは、状況によって違う。状況によって違いがあるからこそ、注意をしない方がいい場合もあることに気を止めて、おとなは「あそび」」に関わりたいものである。このことは、「あそび」に加わっているか、側で見ているかに、関係がない。おとなの存在そのものが影響を与える。時には、おとなは存在さえ感じさせない忍者のように、こどもたちの「あそび」を見ているのも大切なことだと思う。



「あそび」をやめさせるには

 忍者のように振る舞っていても、他のものに大きな危害を与える危険な遊びや、やりすぎると身体や学習などに悪影響を及ぼす時などには、「あそび」をやむなくやめさせなければならない時もある。では、その様な時はどうすればいいか、そこが難しいのである。やみくもに、しかも力尽くでその「あそび」をやめさせても、子ども達はきっちり眼をかすめて、再びあそぶことは、多くの方が御経験かと思う。「あそび」は動機フリーで、その「あそび」から興味がそれない限り、禁止は一時的なものに過ぎないのである。その興味のそらせ方は、より興味のひく別の「あそび」を提供するのが、一番である。それに、やめさせたい「あそび」に何を求めているのかを見極め、もし別の「あそび」でその求めているものが実現可能ならば、試してみるのもいい方法である。

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