まとめ 再び「遊び」とは
再び「遊び」と「労働」の関係から
人の生活や一生は、その能動的な活動でみれば大きく分けて「労働」と「遊び」に二分される。そのうち「労働」は、人の生命の維持には欠かせない、それなくしては生活そのものはあり得ない。かといって、「遊び」なくして生活はあり得るのであろうか。これまで、いろんな角度から「遊び」を見てきた結論として、そうでないことは明らかであると考える。「遊び」は人間の生活にとって欠かせないのである。それは、大人にも子どもにも言える。
今日のように「労働」が極めて複雑多岐にわたって、技術的にも高度に発達した現在に生きる人間にとって、広義の「労働」に含めることのできる「学習」とともに、この「遊び」という活動の必要性が増すのではないだろうか。いろんな意味で「労働」を支えるものとしての「遊び」の位置づけ、特にこどものころには、その「遊び」の位置づけは「学習」に比して決して劣らない。なかでも、こどもの「あそび」の役割をもっと重視し注目する必要があるのではないだろうか。
「遊び」におぼれる事なかれ
一方、「遊び」のやっかいなのは、その動機が面白さによるところがほとんどで、のめり込んでしまい「おぼれる」といった状態に進展しやすいことである。この「おぼれる」ことが、「遊び」の引き起こす様々な問題の原因ともなっている。しかも、「遊び」それ自体は生産的ではないので生活自体が破綻してしまう恐れがある。一方、「労働」は過労死など特殊な例か強制的な場合を除いて、「労働」にのめり込みすぎ生活や生命が破綻することはごく希なはずである。昨今、そういうような事態が希でなくなっているのは考えものではあるが。
「あそび」よ永久に!
ともかく、「遊び」は人間の生活に欠かすことの出来ないもので、こどもの頃の「遊び」や「あそび」の重要性はもっと強調されなければならない。特に、こどもの「あそび」の生活に占める割合がどんどん減少している今日、警鐘乱打してこどもの「あそび」の大切さを訴え続けることは、こどもの頃大いに遊んだ私たち「おとな」たちの使命ではなかろうか。もちろん、「おとな」も度を超さない程度に遊ばなければならないことは、言うまでもない。「おとな」も子どもも大いに遊び、そしてあそぼうではないか。「遊び」「あそべる」環境や条件が、いつまでも保障され続けられることを、そのために「遊び」の更なる科学的な探求が「遊び学」に結実することを願って、一凡人による「遊び学」風私論の結びとする。
Copyright (C) 遊邑舎 1999-2002 All Rights Reserved.
|